歴史ファイル

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【衛温と諸葛直】三国志の武将が日本を探して万里の旅へ

三国志時代の末期の末期。魏の曹操も、蜀の劉備関羽張飛などの英雄もこの世を去ったていた。

三国の一角、『呉の孫権は西暦229年(黄龍元年)初代皇帝に即位した。
230年、孫権は『衛温』と『諸葛直』に突如むちゃ振りした。

孫権が二人に命じた。

海の向こうに夷洲(イシュウ)と亶洲(タンシュウ)っていう島があるらしいんだけど、欲しいから占領してきて。あと、昔、秦の始皇帝が蓬莱(ホウライ)の神山に不死の身体になれる神薬がその島にあるっていうことだから、それも取ってきて」

【正史 三国志・呉書・孫権伝】
呉の黄龍二年(230)将軍衞温・諸葛直を遣はし甲士二萬人を将いて海に浮び夷洲及び亶洲を求めしむ。亶洲は海中に在りて、長老伝へ言ふ、秦始皇帝、方士徐福を遣はし童女数千人を将いて海に入り、蓬莱の神山及び神薬を求め、此の洲に止まりて還らず。其の子孫、世相承け数萬家有り。其上の人民、時に會稽に至り貨布す。 會稽東縣の人、海に行き風に遭ひ流移して亶洲に至る者有り。所在不絶にして至ること不可、但し夷洲の数千人を得て還る

呉・孫権の外交戦略
当時、呉は魏を打倒するため、特に外交に力を入れていた。
夷陵の戦いのあと、蜀が『鄧芝』を外交官として呉に派遣し、再同盟を受け入れた。北方では遼東に君臨する『四国志のひとつ公孫淵に接近していた。また、南方(現在のベトナム)方面の交州にも力を入れ、国力増大に力を入れていた。

夷州と亶州
夷州とは台湾のこと。亶州は史記始皇帝本記にも記述があるが、種子島琉球、日本の九州のことではないかといわれている。
三国時代には亶州の住民が会稽郡にやって来て商いをしたり,会稽郡東部に住む者が漂流して亶州に流れ着く事があった。

陸遜の反対
孫権に意見を尋ねられた呉の『大軍師・陸遜』は、「四海未だ定まらざれば、当に民力を須ませて、以て時務を済ふべし。今やす兵興こること歴年、見衆 損減せり。陛下 聖慮を憂労して、寝 と食とを忘れ、将に遠く夷州を規りて、以て大事を定めんとす。又 珠崖は絶険にして、民は猶ほ禽獣のごとし。其の民を得るも、事を済すに足らず。其の兵足らず衆虧くること無くんば、今江東の見衆自づから事を図るに足れり。」 答えた。
亶州の民は山越などの異民族に比べ文化が遠く、陸遜はこの民を禽獣のようだと言い、兵の不足を補うことはできないと反対した。

出航、そして無念の帰国
かくして、衛温と諸葛直は夷州・亶州を探しに旅立った。
所在 絶遠にして、卒に至るを得可らかず。 但だ夷洲の数千人を得て還るのみ。」
武装1万を率いて夷州・ 亶州へ向かったが、亶州へは到達できず、兵の8~9割を疫病で失った。夷州で現地人千人ほどの民を連れて帰り、失意のうちに帰国した。

衛温・諸葛直、皆 詔の 功無きを以て、獄に下りて死す
帰国した後、衛温と諸葛直は、目的が果たせなかったとして、二人とも獄に繋がれ誅殺されてしまった。

なぜ失敗したのか
諸説あるが、一説では出航した時期が悪かった。通常、倭国へ旅立つのは23月のまだ寒い時期。衛温らは89月頃に洋上にあり、台風の季節に当たったというものがある。
他には、当時の磁石はかなり有効に使えたそうで、単純に東に向かってしまい、正確には北東に位置する日本へはたどり着けなかった、などがある。
長江文明倭国流入していたり、呉越の亡命先が倭国だったりするので、当時でも倭国に行くのは可能だったのだが、衛温と諸葛直は運が悪かったかもしれない。

どういった理由にせよ、数年後に遼東の公孫氏が滅亡した後、『魏志倭人伝』にあるように、邪馬台国卑弥呼から使者が来るのだから皮肉な話である。
邪馬台国は魏から最上級の『金印』をもらっているのだから、三国志の時代の東の海上に浮かぶ島国は魏と呉の中では一種の希望だったのかもしれない。