歴史ファイル

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【吉備津彦命 VS 温羅】桃太郎のモデル 大和朝廷と鉄の王国吉備の戦い

誰もが知ってる桃太郎

桃太郎といえば、川から流れてきた桃から生まれ、キビ団子をエサにイヌ・サル・キジを家来に鬼ヶ島に住む鬼を退治した英雄で、日本で一番知名度の高いおとぎ話だが、この桃太郎にモデルがいたことを知っているだろうか。 日本各地に桃太郎伝説はあるが、現在の岡山県はかつて『吉備』とよばれ、『温羅伝説』というものが存在した。その温羅伝説が桃太郎のストーリーのモデルになっているという。  f:id:Katemato:20190718220747j:plain

【吉備】鉄の王国 

古代吉備国は鉄資源が豊富で非常に栄えており、『古今和歌集』に 『まかねふく 吉備の中山 おびにせる 細谷川の おとのさやけさ』とある。鉄の意味のある「まかね」を「ふく」、これは鉄を製錬するという意味になり、吉備から製鉄遺跡が約30、製鉄炉は100基以上見つかっていることから、当時の最先端技術を持っていたことを証明している。

さらに、吉備平野は温暖な気候で稲作を育てるのに非常に適していて、鉄の技術が農機具を進化させ、生産量を向上させた。瀬戸内海からは多くの海産物が得られ、製塩技術も持っていた。 巨大古墳文化を持っていたことでも知られており、全国で4番目に大きい『造山古墳』は全長360メートルに及び、古代ストーンサークルでも有名な『楯築遺跡』は国内最大級を誇っている。

【温羅】吉備の鬼 

吉備には温羅という鬼のように恐ろしい人物(人?)が治めていた。伝えられるところによると温羅は百済の王子で空から飛来して吉備国にやってきた。目は狼のように鋭く輝き、髪は燃えるように赤く、身長は1丈4尺(4.2m)もあり、船を襲撃したり、逆らうものを釜茹でにするなど悪行をしていた。人々からは『吉備冠者』と呼ばれ恐れられていた。  居城は『鬼ノ城』と呼ばれ、朝鮮式山城で標高400mの霊峰・鬼城山にあり、約28Kmもの城壁に囲まれ、当時の高度技術によって建てられている。 現在でも鬼ノ城の石垣や土塁が残っている。

吉備津彦命山陽道に派遣された四道将軍のひとり 

人々は大和朝廷に救済を求め、朝廷は四道将軍の一人『吉備津彦命』(きびつひこのみこと)を派遣した。 父は第7代天皇孝霊天皇(史実では実在していない)。奈良県磯城郡田原本町に生まれた。 『日本書紀』には北陸に派遣された大彦命、東海に派遣された武渟川別丹波に派遣された丹波道主命とともに『四道将軍』と呼ばれていた。

吉備津彦命の家来】イヌ・サル・キジ

犬飼健(いぬかいたける)=イヌ。 楽々森彦(ささもりひこ)=サル。出自は県主で、娘の高田姫命が吉備津彦命に嫁いだ。 留玉臣(とめたまおみ)=キジ。鳥飼に優れた。 3人の家来を従え、吉備津彦命は現在の『吉備津神社』付近の「吉備の中山」に陣を張った。 ちなみに、五・一五事件で暗殺された犬養毅はこの犬飼健の子孫であるとされる。

【決戦】温羅討伐 

吉備津彦命は陣のある吉備の中山の西、片岡山に石楯を築き立てて防戦の準備をした。これが上記した『楯築遺跡』で、吉備の中山には、『中山茶白山古墳』がある。

戦いが始まり、互いに弓を射ち合うが吉備津彦命の打つ矢はいつも温羅の矢と空中で噛み合い、いずれも海中に落ちてしまう。 吉備津彦命は一計を案じ、一度に二本の矢を放てる強弓を用意し発射したところ、一矢は温羅の矢と当たり 、もう一矢は違わず見事に温羅の左眼に突き刺さり、大量に流れる血は近くを流れる清川を赤く染めた。 その川は岡山県総社市にあり、『血吸川』として残っている。

吉備津彦命の一矢にひるんだ温羅は、雉に変身して山中へ隠れたが、吉備津彦命は鷹となってこれを追いかけた。(仲間にキジがいるのに!?) 次に温羅は鯉に変身して血吸川に入って逃げると、吉備津彦命は鵜となってこれを噛み捕まえた。 現在も『鯉喰神社』があるのはその由縁である。 温羅は、吉備津彦命の軍門に降り、『吉備冠者』の名を吉備津彦命に献上した。 吉備津彦命は温羅の首をはね、串し刺にしてこれを晒した。

【不死身の温羅】 吉凶を占う神へ

晒された温羅の首は大声を上げ続け、吉備津彦命は部下の犬飼建(イヌ)に命じて犬に喰わした。 肉はつきて髑髏となったがなお止まない。 吉備津彦命はその首を吉備津宮の釜殿の竈の下に八尺ほど掘って埋めた。 しかし、13年の間唸りは止まらず鳴り響いた。

ある夜、吉備津彦命の夢に温羅の霊が現われた。 「吾が妻、 阿曽郷の祝の娘 阿曽姫(アソヒメ)をしてミコトの釜殿の神饌を炊かしめよ、もし世の中に事あれば竈の前に参り給え、 幸あれば裕かに鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう」

(我が妻、阿曽姫に御釜殿の火をたかせよ。世の中に事が起こったなら竈へ参れ、幸福が訪れるなら豊かに鳴り、災いが起こるなら荒々しくなるだろう)

吉備津宮の御釜殿は温羅の霊を祀るものとされ、 精霊を『丑寅みさき』と呼ばれることになった。これが現在行われている『吉備津宮の釜鳴神事』のおこりである。

【その後】長生きし過ぎだろ

吉備津彦命は吉備の中山の麓に建てた御殿「茅葺宮」に住んで政治を行い、281歳まで生きたという。 吉備津神社の、背後にある吉備の中山の中腹に、吉備津彦命の墓と伝わる墓陵がある。