歴史ファイル

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【上毛野田道】古代日本の英雄は大蛇の化身

上毛野 田道(かみつけぬのたじ)

仁徳朝の武人で『日本書記』に伝わる古代の英雄。

【兄・竹葉瀬】 詰問使として新羅

仁徳天皇53年 (367年)、新羅朝貢をしてこなかった。 夏5月。まず初めに、上毛野君(かみつけのきみ)の祖先の竹葉瀬(たかはせ)を派遣し、朝貢しなかったことを詰問させた。その道の途中、竹葉瀬は珍しい白鹿を獲ったので、天皇に献上するため帰国。 その後改めて、新羅へ詰問に行った。

【上毛野田道 VS 新羅

その後しばらくして、竹葉瀬の弟『田道』(たじ)が派遣された。 天皇が詔をだし、『もし新羅が拒絶したら、兵を挙げて撃て』と精鋭の兵を預けた。 新羅朝貢を拒絶し兵を起こし、毎日戦いを挑んできたが、田道は要塞を固め攻撃に撃っては出なかった。

【百衝】 新羅の猛将

新羅の軍の兵卒の一人が陣営を出た際、田道軍はそれを捕え、内情を問いただした。 兵卒は答えた。 『強力(チカラ)のある人がいます。百衝(モモツキ)といいます。輕捷猛幹、軽く、早く、勇猛で、強い。』 続けて兵卒は答えた。 『いつも軍の右の先方にいるので、左を撃てば敗れるでしょう』 田道は精鋭の騎兵で、その左を撃ち、新羅の軍は壊滅四散した。田道は追撃し、数百人を殺した。四つの邑の人民を捕えて帰った。

【上毛野田道 VS 蝦夷

仁徳天皇55年、蝦夷が叛いた。 新羅を破った将軍田道を派遣し、討伐させた。 蝦夷は、険しい山坂道に待ち伏せし、遂に田道をとり囲んでしまった。 さすがの名将田道は蝦夷に敗れ、『伊侍の水門』(いしのみと)で敗死してしまった。 死の際に、従者が田道が手に巻いていた腕輪を取り、田道の妻に届けた。 田道の妻はその腕輪を抱いて縊死してしまった。  これを聞いて民は泣き悲しんだ。

【大蛇伝説】

再度また蝦夷が襲ってきて、民を略奪した。 蝦夷は田道の墓を掘ると、そこには大蛇がいた。 大蛇は墓から出てきて蝦夷の兵を咬んだ。 蝦夷はことごとく蛇の毒に当てられ多くの者が死んでしまった。 人々は恐れ猿賀神社に祀った

四百年後、坂上田村麻呂征夷大将軍として蝦夷征伐で苦戦に陥った時、田道の神霊が現れ大勝に導いた。 それを桓武天皇の奏上し、勅許により大同2年(807年)奥州猿賀深砂神・蛇大権現として勧請した。