阿倍 仲麻呂は、文武天皇2年(698年)に筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫、中務大輔・阿倍船守の長男として大和国に生まれた。若くして聡明で学才を謳われた。
【遣唐使】 荒波を越えて長安へ
霊亀3年(717年)、19歳の時、仲麻呂は『多治比県守(たじひ の あがたもり)』が率いる『第9次遣唐使』に参加し、吉備真備や玄昉、井真成らとともに唐の都『長安』に留学した。 今回の遣唐使は使節も含め総勢557人いた。
唐の6代皇帝・玄宗は遣唐使一団を迎え、下賜品を与えた。 仲麻呂はこの品を大事に保存するなどはせず、売り払い、学問の費用に当てたり、仏教の本を購入している。 仲麻呂は唐名を『朝衡・晁衡』としている。
【科挙に合格】 この時点でもうスゴイ
太学(唐の官僚育成学校)で学び、科挙に合格した後、唐の皇帝・玄宗に仕えた。
科挙とは中国の隋の時代から1905年の時代まで続いた官僚登用試験で、今日の日本の司法試験よりはるかに難しく、合格率が0.03%だったといわれている。 内容は主に儒教の基本である『四書五経』の内容について出題され、答えるためには膨大な量の内容を、注釈も含めて完全に暗記する必要があった。それに加え、詩作や文字の美しさ、方言のない言葉が喋れるかなどさまざまな技能を要求されるなど、あまりの難易度に自殺者が多く出たことでも知られている。 合格した人は『進士』とよばれ、難易度の高さから『五十少進士(五十歳で進士になるのは若い方だ)』ということわざも生まれている。
【出世街道】
神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官。 校書とは、書物の管理や高官の文筆を補佐する役目で、希望者の多い職だった。 神亀5年(728年)左拾遺 天平3年(731年)左補闕に任命されるなど順調に出世を重ねた 仲麻呂はその間に李白、王維、儲光羲などの唐詩人と親交を深めた。 『全唐詩』には彼に関する作品が現存している。
【第10次遣唐使】
天平5年(733年)に『多治比広成』率いる第10次遣唐使が来唐したが、仲麻呂は唐での官途を追求するため帰国はしなかった。 唐での役目を無事に済ませた4隻の遣唐使一行は帰国のため出航。だがその帰路、各船遭難してしまった。 多治比広成や吉備真備、玄昉の乗る第1船はなんとか種子島に漂着し無事帰国した。 第2船は唐に流し戻され、長安へ戻った。船を修復し、その後無事帰国。 第3船は崑崙国(チャンパ王国、南ベトナム)に漂着し、襲撃を受け100人以上いた者が4名になり、抑留される。 その後脱出し、仲麻呂の仲介により、渤海経由で出羽国へ帰国した。
仲麻呂はその後も順調に出世している。 天平5年(734年)に儀王友 天平勝宝4年(752年)に衛尉少卿に昇進している。
【第12次遣唐使】
725年、藤原清河を大使に長安に到着。長安で玄宗に拝謁する。 在唐35年になる仲麻呂は帰国を決意。 唐の高級官僚で、『詩仏』といわれた有名な詩人でもある『王維』は別離の詩を詠んでいる。
【送祕書晁監還日本國】
積水不可極 「大海原は果てがなく」 安知滄海東 「蒼海の東の果てがどうなっているかわからない」 九州何處遠 「九つの世界のうち、 最も遠い世界」 萬里若乘空 「万里の道は空を乗るかのよう」 向國惟看日 「国に向かってただ太陽を見て」 歸帆但信風 「帆はただ風に任せるのみ」 鰲身映天黑 「海亀は黒々と天にその姿を映し」 魚眼射波紅 「魚眼は赤く、波を貫いている」 鄕樹扶桑外 「故郷の神木(扶桑)のはるか外にあり」 主人孤島中 「君はその孤島へ行く」 別離方異域 「別れれば、そこは全く別の世界」 音信若爲通 「知らせを伝える文もなし」