歴史ファイル

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【阿倍仲麻呂-後編】叶わぬ帰国 日本人初の国際人

唐に滞在して35年の月日が流れ、帰国を決意した阿倍仲麻呂

【鑑真】

この遣唐使の船団に乗り込んだ人の中で有名な人物がいる。 鑑真。唐の揚州江陽県に生まれ、幼少より仏教を学び、20歳で長安へ、律宗天台宗を学ぶ。 揚州の大明寺の住職をしていたころ、日本から唐に来た僧・栄叡、普照に日本へ渡り戒律を伝えるよう懇願された。 鑑真は弟子21人を引き連れ渡日を決意した。 幾度かの失敗を乗り越え、第12次遣唐使の大使・藤原清河に乗船を願うが、明州当局に見つかり、清河は乗船拒否。しかし、遣唐使の副大使・大伴古麻呂は内密に第2船に乗船させた。

【漂流船】 晁卿衡を哭す

天平勝宝6年(754年)、藤原清河率いる第12次遣唐使の船に乗船した。 出航して後、仲麻呂は船上で歌を詠みあげる。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも (天を仰いで遠く眺めると、奈良の春日にある三笠山に昇っていたの同じ月) f:id:Katemato:20190617131114j:plain

しかしその後、仲麻呂の乗船していた第1船は暴風雨に遭遇。船は南方へ流され漂流、音信不通になってしまった。 仲麻呂が落命したことを伝え聞いた友人李白は心の内を詩にしている。

哭晁卿衡 李白  「晁卿衡を哭す」

日本晁卿辭帝都  「日本の晁卿は、長安の都を辞した」 征帆一片繞蓬壺  「帆影は、仙人が住むという蓬壺の島をめぐって行ったのだ」 明月不歸沈碧海  「明月のように輝いていた君は帰らず、碧海に沈んだという」 白雲愁色滿蒼梧  「白い雲とともに悲しみの色が、蒼梧の空に満ちている」

安禄山の乱

仲麻呂の乗っている船は沈没は免れ南方に向かって漂流し、南安の驩州(現在のベトナム中部ヴィン)に漂着した。 天平勝宝7年(755年)に仲麻呂らは長安へ帰着。 その後日本から渤海経由で迎えの船が到着する。しかし、同じ年に起こった安禄山の乱が発生したため唐朝は危険だとの理由で帰国を認めなかった。

安禄山は聖域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血。唐王朝に仕え、玄宗に信任され、その妃の楊貴妃に取り入り、北方の節度使に任命されていた。

宰相ととなった楊貴妃の従兄、楊国忠との対立が深刻化し、その後安禄山は755年に挙兵していた。 乱の規模は中国全土に渡っており、特に長安から海までの路は危険だった。

【安南都護】

仲麻呂は帰国を断念。唐朝に再び使えることを選ぶ。 天平宝字4年(760年)、左散騎常侍を務めた後、鎮南都護・安南節度使としてベトナムへ。

都護府(とごふ)は、中国の漢、唐王朝の時代に、周辺諸民族統治などのために中央から都護を派遣し、六つの都護府を置かれた軍事機関。 長官は都護と呼ばれた。都護の下は都督、州の刺史には現地の族長を任命した。 その下に鎭戎が置かれて辺境防備に当たった。

天平神護2年(766年)、安南節度使。 最終的に潞州大都督となり、阿倍仲麻呂宝亀元年(770年)1月、73歳で波乱に満ちたその生涯を閉じた。

「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備)および朝衡(阿倍仲麻呂)の二人のみ」 『続日本紀』にはこう記してある。