歴史ファイル

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【樋口季一郎と東条英機】 ユダヤ人難民救出 黄金の碑に刻まれた軍人

昭和13年(1938年)3月 満州国ソ連の国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポールという街に多数のユダヤ人が現れた。

ユダヤ人難民】ナチスの迫害から逃れ東へ

ヨーロッパにおいて、ユダヤ人はキリストの磔刑に関与していたとされているため、古くからキリスト教徒から多くの迫害を受けてきた。 1933年、ヒトラー内閣成立後、『反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令』が発せられ、ドイツに住むユダヤ人への迫害が始まった。その後『職業官吏団再建法』が、1935年9月には『ニュルンベルク法』が制定され、迫害はさらに強まった。 ユダヤ人はポーランドを目指したが、受け入れに難色を示したためソ連へ向かった。しかし、ソ連はもユダヤ人難民の受け入れを拒否していたため、ユダヤ人は満州国への入国を希望し、シベリア鉄道に乗り満州ソ連の国境まで来ていた。 ところが満州国も日本とドイツの関係を気にして入国ビザの発給を拒否してしまう。

樋口季一郎

1888年、廻船問屋であった父・奥濱久八の長男として淡路島に生まれた。 三原高等小学校、私立尋常中学鳳鳴義塾、大阪陸軍地方幼年学校を経て陸軍士官学校(21期)へ。同時に東京外語学校でロシア語を徹底的に学んだ。陸軍大学校(30期)卒業後、1919年にウラジオストクに赴任。1925年にポーランドに赴任し、その後はハルビン特務機関長として滞在していた。

【ヒグチ・ルート】

極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士は樋口に救済を懇願した。 陸軍士官学校の同期であるユダヤ専門家安江大佐とともに、樋口季一郎は難民救済を決断。 即日、食料と衣類、燃料の援助を始めた。そして満州国への入国の斡旋、入植や移動の手配を行った。 その後、樋口は南満州鉄道総裁・松岡洋右に交渉し、特別列車の要請をした。 列車は上海まで行き、ユダヤ人の間で『ヒグチ・ルート』と呼ばれた。

東条英機

日本はドイツと『日独防共協定』を結んでおり、ドイツ外相の抗議書が日本に出され、樋口の独断行動が問題になった。この問題が日独の外交問題に発展しかねない状態になっていた。陸軍の親ドイツ派は樋口を批判し、関東軍参謀長の東條英機中将が樋口を司令部に呼びつけ、ユダヤ人脱出ルート閉鎖をさせようとした。 樋口は東条中将に「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることは正しいと思われますか」と説得。 樋口の話に納得した東條英機は、ユダヤ人救出に対して全責任を請け負い、その後のドイツ外務省の抗議に対し、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した。 その後、ユダヤ人難民の数は増え続け、満州から入国したユダヤ人の数は1938年だけで245名だったものが、1939年には551名、1940年には3,574名まで増えた。

【戦後】

戦後の極東国際軍事裁判ソ連は樋口を戦犯に指名した。この動きを察知した世界ユダヤ人会議は、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、世界的な規模で樋口救出運動が展開された。ダグラス・マッカーサーソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した。

【ゴールデン・ブック】

エルサレムの中心地にユダヤの偉人の功績を永遠に顕彰し刻むゴールデンブックというものがある。 そこにはモーゼ、メンデルスゾーンアインシュタインの名前が刻まれ、4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」と刻まれている。その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名が刻まれている。

東条英機の名前はない。 ユダヤ人教育家、ラビ・マーヴィン・トケイヤーはハルビンユダヤ民族協会を通してユダヤ人社会との交流があった樋口、安江。一方、東條はユダヤ人と親交を結ぶ機会がなかった。もしユダヤ民族協会との交流があれば、ゴールデンブック入りは勿論の、東京裁判の判決に対し世界中のユダヤ人から助命嘆願書がマッカーサーのもとに寄せられたことだろう。