歴史ファイル

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【野見宿禰 VS 当麻蹴速】相撲の始祖の対決はキックボクシング

当麻蹴速】 蹴りの達人

日本書紀・垂仁紀』には 「当麻邑に勇み悍き士有り。当摩蹶速と曰ふ。 其の為人、力強くして能く角を毀き鉤を申ぶ。恒に衆中に語りて曰はく、『四方に求めむに、豈我が力に比ぶ者有らむや。何して強力者に遇ひて、死生を期はずして、 頓に争力せむ』」とある。

当麻蹴速(たいまのけはや)は大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住む豪族だった。 力がとても強く誰も敵わないほどの怪力で、自分と互角に力比べをできるものはこの世にはいないと常に豪語していた。 蹴り技に秀でていたため蹴速と呼ばれていた。

(葛城市當麻に蹴速の塚と呼ばれる蹴速塚がある) 誰か強いものに遇い、生死を賭けて戦いたいと望んでいた。

野見宿禰】 キックボクシング対決

垂仁天皇は蹴速と闘える者はいないかと家来に尋ねると、出雲の国に天穂日命(あめのほひ)を先祖に持つ『野見宿禰』というものがいるという。 天皇野見宿禰大和国に招くと相撲を取らせることにした。 いや、後の相撲と呼ばれる何かの力比べの対決をさせた。

野見宿禰当麻蹴速の闘いが始まると、お互い足技を繰り出し蹴りあった。 回し蹴り、ローリングソバット、かかと落とし、サマーソルトキック竜巻旋風脚 (相撲に足技ってあったっけ?) そして最後に、宿禰の回し蹴りが蹴速の腰骨を砕き、当麻蹴速を殺した。

垂仁天皇野見宿禰の強さを讃え、当麻蹴速の所有していた領地をすべて与え、その後側近として使えることになった。

【ハニワの考案】

垂仁天皇32年7月。皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった。垂仁天皇が古来からある殉死の風習は良くないので、皇后の葬儀にあたって何か提案はないかと家臣に尋ねたところ、野見宿禰が答えた。 『夫れ君王の陵墓に生ける人を埋み立つるは、是不良し。豈後葉に伝ふること得むや。願はくは、今便りなる事を議りて奏さむ』

野見宿禰は殉死の代わりに「土物(はに)」を提案し、故郷の出雲へ使いを出し「出雲国の土部」百人を呼び出し、制作した土物を天皇に献上した。土物は『埴輪(はにわ)』と名付けられ、陵墓に建てられた。 天皇に称賛された野見宿禰は土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、子孫は代々天皇の葬儀を司ることになった。

また、土師氏の中から菅原氏が出て、後世の菅原道真野見宿禰の子孫といわれている。