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【真柄直隆と太郎太刀】 本当にあった信じられないようなリアル戦国無双 

2018年の夏に熱田神宮に行った。 旅行の目的地である『伊勢神宮』に行く途中だったので、時間に限りがあり『熱田神宮』に行くか、『清州城』にいくか迷ったのだが、 三種の神器『草薙剣』のパワーにあやかろうと思って熱田神宮に行ってみた。

神宮内の建物が閉館する間際、時間ぎりぎりで入れた宝物館ですごいものを見つけた。

【真柄直隆と太郎太刀】 本当にあった信じられないようなリアル戦国無双 

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大太刀『太郎太刀』

5尺3寸(約175㎝) 千代鶴国安作 当時の男性の平均身長は160㎝。現在の日本の男性平均身長は170㎝弱だが、それにしても大きすぎる。 f:id:Katemato:20200313230608j:plain

この熱田神宮に展示されているものは『信長記』など文献に書かれているものより大きく、なんと長さ約222㎝。 巨人族しか使えないような代物に正直びっくりした。

説明書きを見るとなんと実際に使われてたというではないか。 そしてその所有者の名は――

『真柄直隆』

朝倉義景の家臣で、戦国期でもっと評価されてもいいのではないかという隠れた名将。まさに戦国時代のTHE豪傑だ。

越前・朝倉家の客将

天文5(1536年)生まれ 出生や幼年の頃の直隆のことは詳しくはわかっていないが、真柄氏は越前国の真柄荘の国人として朝倉氏の客将として上真柄に拠点を構えていた。(現・福井県越前市上真柄町) 真柄氏は軍役の一部を負担するのみで、朝倉氏の完全な家臣というわけではなかった。 直隆の代から家臣として仕えていたという。

通称を十郎左衛門と呼ばれ、弟に直澄というのがいるのだが、ややこしいことにこちらも十郎左衛門と呼ばれていて同一人物説がある。 真柄直隆の息子は隆基。後述するがこちらも怪力無双だった。

一説では直隆の体格は身長2メートルを超え、体重250キログラムに達したといわれている。おそらくこれは後世の誇張が過ぎてる気もするが、どうだったのだろう。大関小錦の全盛期が187㎝/275キロだったというから、相撲の世界ならまだしも、200キロ越えで戦闘に出れるというのは難しいのではないかと思うが。

将軍の御前で太郎太刀を披露

永禄9年(1566年)、将軍家再興を夢見る足利義昭が朝倉義景を頼って越前・一乗谷(朝倉氏の本拠地)に来た。 その際、真柄直隆は義昭の御前で、自慢の大太刀『太郎太刀』を使った剣技を披露した。 大太刀を頭上で数十回も振り回す大技を見せ、義昭は感嘆したに違いない。

ついでに息子の隆基も父同様に怪力だった。 同じように義昭の前で隆基は黒い卵型の大石を数十回と空中に投げ飛ばし豪傑ぶりを披露した。

175㎝もある大刀を振り回す直隆がすごいのか、巨石を空中に投げ上げる隆基がすごいのか、どちらが難易度が高いのか考えてしまうが、どちらも常人にはできることではない。これだけでも豪傑っぷりがよくわかるエピソードだと思う。 ちなみに子・隆基も大刀を所有していて、その大きさは四尺七寸(142.4cm)あり、『次郎太刀』と呼ばれていた。

足利義昭上洛 征夷大将軍に

朝倉氏のもとにいた足利義昭は上洛の援助を受けられないと考え、急速に織田信長に接近した。朝倉義景は義昭を止めようとしたが、義昭は滞在中の礼を厚く感謝した御内書を残し越前を去ってしまった。 非常にもったいない。チャンスを活かすも殺すも本人次第と思ってしまう。これ、教訓。

永禄11年(1568年)9月、織田軍に警護されながら上洛を開始。京都までの間、六角義賢の抵抗を押しのけ、京都へ到着。10月18日、足利義昭はめでたく朝廷から将軍宣下を受け第15代将軍に就任した。

姉川の戦い勃発 

朝倉義景・浅井長政VS織田信長・徳川家康

織田信長は義景に対して将軍・義昭を後ろ盾にして2度上洛の要求をするが、義景はそれを拒否。 断った理由は諸説あるが、「織田家嫌い説」と「越前を留守にしたくない説」が有力だが本当のところはわかっていない。 それはともかく、信長にとっては義景が従わない以上、織田領の美濃(岐阜県)と京都の間に朝倉義景の越前(福井県)があることに対し信長は地理的に危険と判断、信長は永禄13年(1570年)4月20日、義景に叛意ありとして信長は盟友・徳川家康と越前に侵攻。姉川の戦いが始まった。 f:id:Katemato:20200313230703j:plain

真柄直隆VS本多忠勝

朝倉軍は序盤を優勢に進め、家康の本陣を突き崩そうと攻勢をかけた。そんな中、一騎で朝倉軍に迫ってくるものがいた。 天下無双の武勇98の猛将・本多忠勝。

迎え撃ったのが朝倉軍の隠れ天下無双の武勇83の猛将・真柄直隆。(注:もっと評価されてもよい)  

両者一騎打ちになり、激しく撃ち合う。「名槍・蜻蛉切」本多忠勝、「太郎太刀」真柄直隆、夢の対決、どちらも引かずなかなか決着がつかない。そうしている間に徳川軍は朝倉軍を押し返し、結局朝倉軍は撤退。本多忠勝との勝負はつかないまま終わった。 f:id:Katemato:20200313230717j:plain

真柄直隆VS匂坂兄弟

戦いはその後、織田・徳川連合軍が優勢になり、朝倉軍は敗戦が濃厚になってくる。真柄直隆は味方を逃すために、単騎で徳川軍に突撃をかける。太郎太刀を振り回し戦国無双状態の直隆は徳川軍12段構えのうち、8段まで突き進んだ。

直隆は太郎太刀を水車の如く振り廻し、当るに任せて敵を薙ぎ立てて、討たれる者数を知らず。四~五十間(約73m~約91m)四方は田を鋤き返すが如くだった。                      真柄直隆は「我は真柄十郎左衛門!心ざしある者は引き組んで勝負せよ!!」と叫び、迎え撃つものがでてきた。 「我は徳川が郎等勾坂式部という者なり!参りあわん!!」 徳川家臣の匂坂三兄弟。(こうさか、向坂とも)

匂坂三兄弟の長兄・匂坂式部は手槍を引っ提げ「ものものしや!」と突きかかった。直隆は一睨(いちげい「ひとにらみ」)して、一の太刀でその槍の穂先を切り落とし、二の太刀で式部の兜の吹き返しを撃ち割り、式部は馬上から落ち戦死した。

それを見た式部の弟・五郎次郎と六郎五郎(名前がややこしい)、郎等・山田宗六は直隆にかかるが直隆はものともせずにいた。 五郎次郎が危ういところを六郎五郎が助けに入る。そこへ郎等・山田宗六が「主は討たせぬ」とばかり直隆の前に進みでる。 直隆は彼を見て、「心ざしある奴等よ。惜しい。物見せん!」と叫ぶと、直隆は山田宗六の兜の天辺から唐竹割りのごとく切り捨て、体が左右に開いてしまった。兄弟も数か所の深手を負い、討たれるかと思うその時―――

真柄直隆の最後

(***いろいろな文献を調べたところ、主に二つのストーリーがあった) ①流矢が直隆の左目の上に刺さり、さすがの直隆も絶えることができず、馬上から真っ逆さまに落ち、匂坂兄弟は折り重なって直隆を押さえ、直隆の首を打ち取った。

②弟・六郎五郎は十文字槍を以て直隆を掛け倒し、式部に向かって「首を取るべし!」といったが、式部はすでに傷が重く、「我、すでに殊に汝、真柄を槍付くる上は早く首を得て誉にせよ!」と答える。 満身創痍の直隆も力尽き、「今はこれまでなり、我が首を取って男子の本懐とせよ」と太郎太刀を投げ捨て首を預けた。

匂坂兄弟が打ち取った刀は「真柄切」といわれるようになった。

真柄隆基VS青木一重

真柄直隆の子・隆基は、父が撃たれたのを聞くと「次郎太刀」を引っ提げて引き返し奮戦。数多くの敵を打ち取ったが、家康の兵・青木一重が鎌鎗をもって隆基を付き伏せ、ついに隆基も首を取らてしまった。 後に、青木一重は、「真柄は大剛大力の男で我等がおよぶところではない。誰かと戦って傷を負ったところへ行き合って討ち取ったまでである」と言ったという。

朝倉氏滅亡後

姉川の戦いから6年後の天正4年(1576年)、山田甚八郎吉久というものが奉納し、現在も熱田神宮に保管され展示されている。

天正11年(1583年)、丹羽長秀から「真柄加介」宛てに知行安堵状が発給されており、一族はその後も存続している。