歴史ファイル

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【美女木の由来】 オラの村に絶世の美女がやって来た 

関東に住んでいて車を運転する人ならだれでも知っている地名がある。

『美女木』

首都高と東京外環を結ぶ「美女木ジャンクション」が有名だが、身近にありすぎてあまり疑問に思ったことはなかったが、この言葉の由来はどこにあるのか調べてみた。

新編武蔵風土記稿

江戸時代にに書かれた「新編武蔵風土記稿」にはこうある。 『もと上笹目と云いしが、古へ京師より故ありて美麗の官女数人、当所に来り居りしことあり、其頃近村のもの当村をさして美女来とのみ呼しにより、いつとなく村名の如くなりゆきて』

訳:もともとこの地を上笹目と言っていたが、昔、京都より美しい官女数人がこの地に来た。近隣の村々の人々はこの地を『美女来』と呼んだところ、いつの頃か「来」が「木」に変化し、地名になっていった。 読んで字の如く、文字通りはるか昔に美女がいたらしい。

しかし、記述には続きがあって「いとおぼつかなき説なれども」と記してあり、これが地名の由来になったかは定かではない。

いつから呼ばれていたのか

室町時代に書かれた「鶴岡事書日記」(応永5年/1398年9月10日)には、京都から美女が来て移り住んだので、その場所が美女木と呼ばれるようになった、と記されているので、600年以上も前にはそのような地名になっていたのがわかる。

上記した通り、美女説はいとおぼつかない説らしく、以下の通り、他にも説がある。

水害説

中世の関東地方は治水がいきわたっておらず、荒川をはじめ一面荒れ果てていて、沼や低湿地帯が広がっていた。(本格的に整備されるのは家康が関東に国替えされられてから) 美女木はまさにその荒川の横にあり、幾度も氾濫などの災害にあっていた。水害に遭うたびに美女木の地はびしょびしょになっていたため、また、「ビジョ」とはぬかるみを現しているため、漢字を当てて「美女美女」、そう、美女木になった。

流鏑馬

美女木の前の笹目郷という地域は鶴岡八幡宮に寄進された土地で、今でも残る流鏑馬の「飛射騎(びしゃき)」という呼び方が変化したものという説もある。

歴史の中には「傾国の美女」、「傾城の美女」と呼ばれる女性がたびたび登場してくる。 日本には常盤御前藤原薬子、The傾国の美女といえば中国の妲己、西施や貂蝉などが思い浮かぶが、個人的には美女木の地名の由来は美女が来たというのが面白いと思う。 近隣の村々の人々が噂をして、それが地名になるほどの美女。歴史のロマンだ。写真が発明されてないのが悔やまれる。