歴史ファイル

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【破斯清道と李密翳】 シルクロードを越えた平城京の役人

私たちが思うより古代の日本というのは国際色豊かだった。 8世紀・奈良時代シルクロードはローマから長安を結ぶ貿易の大道であるが、世界遺産正倉院に収められてる宝物にわかる通り、奈良・平城京は海外からの多くの遺物が発掘され、シルクロードの最終地点とされる。

木簡が見つかる

1966年8月 奈良県平城京跡から8世紀中頃の木簡が出土した。 平城宮跡・東南隅の発掘調査で1万3000点の木簡が出土した。木簡に書かれていた文字はかなり薄くなっていて、当時の技術では肉眼では一部が判読できなかった。

時は流れて、2016年 10月5日 奈良文化財研究所が赤外線撮影を行った結果、そこには遥か遠く離れたペルシアから日本へきた人物の名が残されていた。

破斯清道(はしのきよみち)

木簡に書かれていたのは

「大学寮解」 「申宿直官人事」 「員外大属」 「破斯清道」 「天平神護元年

「大学寮」 >>>儒教や法学などを教え役人や官僚を育成する教育機関のこと。

「解」 >>>下級官司から上級官司への報告。

「申宿直官人事」 >>>大学寮の宿直担当者に関する報告・記録。

大属(だいさかん)」 >>>役職名。四等事務官。四等官制の最下級「属(さかん)」の上位の者を意味する。

「員外」 >>>特別職の意。規定する定員以外の官人である。 大陸から渡ってきた能力・技術を見越してのポジションだと思われる。

天平神護元年」 >>>西暦765年

「破斯」は「はし」と読み、現在のイラン「ペルシア」を意味する。 後述に出てくる「波斯」はペルシアの中国語読みで、「破斯」もペルシアを意味すると思われる。

もう一人のペルシア人聖武天皇に拝謁する

大学寮に破斯清道が勤めていた765年から29年前の736年。 「続日本紀」にあるペルシア人の記述がある。

李密翳(り みつえい)

天平八年 八月 戊申朔庚午 入唐副使 従五位上 中臣朝臣 名代等 率唐人三人 波斯人一人 拝朝」 「十一月 丙子朔戊寅 天皇臨朝 詔 授入唐副使 従五位上 中臣朝臣 名代 従四位下 故判官  正六位上 田口朝臣 養年富 紀朝臣 馬主 並贈従五位下 准判官 従七位下 大伴宿禰 首名 唐人 皇甫東朝 波斯人 李密翳等 授位有差」

736年、8月。遣唐副使・従五位上の中臣朝臣名代たちが唐人3人・ペルシャ人1人を率いて、聖武天皇に拝謁した。 その後、11月。遣唐副使の中臣朝臣名代に従四位下を授け、唐人の皇甫東朝やペルシャ人の李密翳らに位階を授けた。

李密翳についての記述はこれのみで、それ以外どのような人物だったか、どのような技術を持っていたかなどは不明。

破斯清道と李密景

時代が近いこと、名前の音が若干近いことから同一人物の可能性がある。 唐では国のために尽くし活躍した外国人には「李」の姓を与えられる。密翳という名前はこのペルシア人のペルシア名を漢字に表記したのではないかといわれている。

亡命の民、ササン朝ペルシア

ペルシアはイラン高原にあり、西はエジプト、イスタンブールを経てローマへ、東は唐へと続いていた。いわるゆペルシアとは東西の貿易の中継地点だった。 貿易で成り立ち、国は豊かで最盛期はローマや隣国のインドを圧倒するほど強大な国になっていた。

木簡に書かれたいた日付は765年。 遡ること約80年、642年、ササン朝ペルシアは新興勢力イスラーム勢力にニハ―ヴァンドの戦いで大敗し滅亡していた。 王族や民は四散し、シルクロードを越えて他民族に寛容な唐に亡命し、そこで亡命政府を作っていた。 結局、ササン朝ペルシアの再興は失敗に終わり、ペルシアの民は長安で暮らしていた。

他民族の暮らす国際都市・長安には遣唐使で来唐していた日本人もいた。 そこで日本人がそのペルシアの亡命の民と出会っていたのは想像に難くない。 以前、遣唐使の安倍仲麻呂について書いたが、当時の唐にはこの安倍仲麻呂がいた。唐での交流も広く、役職もあり能力のあるこのペルシア人を日本に来日させることを斡旋していたかもしれない。

破斯清道・李密翳は大陸から離れ、日本列島に入り、帰国した遣唐使聖武天皇に紹介された。 そしてその技術を活かし古代の日本国家形成の一役を担ったに違いない。