【新徴組・中沢琴】幕末の最強女性剣士はとてもイケメン

戦争というまさに男の世界で幕末を駆け抜けた女性剣士がいた。 男勝りの剣術を駆使し、新選組が結成される前の近藤や土方らと行動を共にし、戊辰戦争を生き抜いた幕末の最強剣士。

中沢琴

【中沢琴】幕末の最強女剣士

天保10年(1839年)、上野国利根郡利根村穴原(群馬県沼田市利根町穴原)に生まれた。 父は中沢孫右衛門、法神流剣術の道場主だった。

【法神流】群馬の人気剣術流派

法神流というのは楳本法神(うめもとほうしん)という剣士が作った流派で、群馬県ではかなり流行していて、門下3000人というほどだった。 この流派を引き継いでいる有名な人物で「昭和の剣聖・持田盛二」がいる。 https://matome.naver.jp/odai/2152698422541501601

中沢琴は子供の頃からヤンチャで男勝りなところがあった。いわゆるお転婆娘といったところだろうか。 父の孫右衛門はそんな琴に剣術や長刀、鎖鎌などを教え込んだ。

琴はやがて成長し、身長は五尺七寸(約170㎝)になった。 江戸時代の平均身長は「男性:155㎝」「女性:143㎝」。現代の世でも女性で170㎝は相当高いと思うが、 当時の平均身長からみると驚くほどの長身だった。

長刀の実力は父や兄・良之助貞祇(りょうのすけ さだまさ)を凌駕するようになってきた。

【浪士組】男装してモテモテイケメン剣士に

文久3年(1863年) 京へ上洛することになった将軍・徳川家茂の警護を目的に「浪士組」が結成されることになった。 尊王攘夷論者・清河八郎の発案で文武に秀でたものであれば犯罪者でも農民でも身分年齢問わずに参加できた。その数は総勢234人にも上った。 その浪士組の中には、後の新選組の核メンバーになる近藤勇土方歳三沖田総司永倉新八などもいた。

琴は当時25歳、兄・貞祇と一緒に応募した。 しかし、剣の強さは他の浪士と引けを取らないが、女性だということで断られてしまった。琴は髷を結い、再度交渉し末非公式に参加することが許され晴れて浪士組のメンバーとして京に向かった。

公式名簿の中に彼女の名前はない。

【京都】

一行は京都へ 琴は男性よりもはるかに長身で、面長で目鼻立ちがよく整っていたので、京都に到着すると女性はもちろん男性からも言い寄られていた。 何も知らない京都の女性から見れば長身のイケメン剣士。もてないはずはない。 男装を解いた女の格好のときは、高身長でも美人だったので、今度は多くの男性から言い寄られた。

【江戸へとんぼ帰り】

もともと尊王攘夷論者である清河八郎は京都に到着した浪士隊のメンバーに対し浪士隊の真の目的を話した。 その内容とは、幕府側の警護とは表向きのものであって、本当の目的は天皇をたて、外国人を打ち払う尊王攘夷運動であった。 その目的を達成するため清河は浪士組に対し、江戸に帰還することを命令した。 一部の浪士隊の隊士達は、将軍を警護するために京都に来て、将軍の滞在中に自分たちだけ江戸に帰れないと反発。

反発したメンバーの中には後の新選組の中核になる近藤勇芹沢鴨らがいて、京都残留を決意。将軍、京都警護の目的で壬生浪士組(後の新選組)を結成。

そういった中、中沢琴は自分も京都に残留したいと兄・貞祇を説得。兄の強い意向により、残念ながら琴は江戸へと帰還。 もし、琴が京都に残留していたらほぼ間違いなくこの壬生浪士組に参加し、後の新選組に名前を連ねていたに違いない。それどころか、実力を考えると、何番隊かの隊長を任され歴史にもっと名前を刻んでいた可能性もある。 近藤や土方、沖田らとともに京都で女性剣士が暴れまわっているところを想像すると面白い。

【新徴組】相変わらずモテている

文久3年(1863年)4月 清河八郎は裏切りの行動に幕府側に目を付けられ、後に龍馬暗殺で有名になる佐々木只三郎に暗殺された。 清河の同士も捕縛されたため、江戸にもどってきていた浪士隊らは目的を失ってしまったため、幕府は幕臣山岡鉄舟高橋泥舟が主導で浪士組を再編成し、ここに江戸市中警護を目的とした新徴組が結成された。

琴と兄・貞祇は新徴組に参加し、江戸の市中警護や海防警備として江戸湾の見張りなどを担当した。 江戸でも琴はイケメンということで評判が高く、相変わらず男性にも女性にももてていた。

元治元年(1864年新選組もそうだったが、もともと不逞の輩が多い新徴組の幾人かは立場を利用し幕府の邪魔になる商家などを襲ったり、ゆすりたかりを働いたりする者もおり、泥舟と鉄舟は不祥事の責任を取らされ罷免。謹慎の罰を受ける。 その後、新徴組は出羽国庄内藩の大名・酒井家に預けられた。

【江戸薩摩藩邸の焼き討ち】薩摩の挑発行為から戊辰戦争

慶応3年(1867年)10月、大政奉還

大政奉還の直前、薩摩藩は朝廷から討幕の密勅をもらっていた。しかし大政奉還により武力討幕の大義を失ってしまい、一度燃え上がってしまった藩士らの火の向けどころを見失ってしまった。西郷隆盛は密命を出し、各地で薩摩藩士による幕府に対する挑発行為が行われていた。強盗、辻斬り、放火、江戸の治安は急速に悪化し、薩摩藩は「薩摩御用盗」と呼ばれて恐れられた。

12月23日 庄内藩の屯所へ鉄砲が撃ち込まれ、使用人1名が死亡。 幕府側はこの薩摩藩の挑発行為に業を煮やし、将軍の留守を守る淀藩主・老中・稲葉正邦はついに武力行使を決意する。

12月25日 軍監・石原倉右衛門を総大将に上山藩鯖江藩・岩槻藩出羽松山藩と共同で薩摩藩邸を包囲。 庄内藩士・安倍藤蔵が薩摩藩邸に交渉に入る。藩邸の留守役の篠崎彦十郎に賊徒を引き渡すよう通告。だが篠崎は要求を拒否。交渉は決裂し薩摩藩邸の討ち入りを決定した。 篠崎は庄内藩兵に槍で突き殺され、包囲する庄内藩兵たちも砲撃を始め、薩摩藩邸に討ち入りを開始した。

戦闘開始から3時間後、薩摩藩邸は炎上。死者は、薩摩藩邸使用人や浪士が64人、旧幕府側では上山藩が9人、庄内藩2人の計11人だった。また、捕縛された浪士たちは112人におよんだ。

琴のいる隊は日向佐土原藩邸の襲撃を担当。琴は兄・貞祇とともに大いに活躍した。しかし、琴は戦闘中に左のかかとを斬られ負傷した。 幕府側は薩摩藩討伐の流れを止めることができず、結局薩摩藩の挑発に答えてしまう形で幕府は討薩の意思を朝廷に上表。

慶応4年1月(1868年2月)京都に向け進軍を開始。戊辰戦争が勃発する。

【庄内戦争】最強といわれた庄内藩

新徴組は鳥羽伏見の戦い幕府軍が敗れたのを機に、庄内藩に入り戊辰戦争に参加。

薩摩藩邸襲撃の際に足を負傷していた琴を気遣い、兄・貞祇は故郷へ帰るよう促したが結局この戦いにも参加。 しかし、兄の心配した通り、琴は足の傷が響き仲間からはぐれ敵兵10人以上に囲まれる。琴は敵兵2-3人を斬ると囲いを突破、なんとか隊と合流した。

兵器の近代化が進んでいた庄内藩は奮戦。奥羽同盟の藩が降伏していく中、新政府軍を相手に領土侵入を防ぎ抜き戊辰戦争の最後、会津藩が降伏した4日後に庄内藩も降伏。 庄内藩は幕末最強の藩だということで語り継がれている。

琴は一時新政府側に捕えられていたが、その後釈放。 明治7年(1874年)に兄・貞祇とともに帰郷。

【生涯独身】私が欲しくば

故郷に帰った琴は男装する理由もなくなり女性の姿に戻り生活を送った。 故郷に帰っても人気は相変わらずで、結婚を申し込んでくる男性が絶えなかった。 琴は一つのことを決心していた、

「私は自分より強い男性と結婚する」

求婚してくる男性と幾度も剣術の試合をしたが誰一人琴に勝利する者は現れなかった。 結局、琴は結婚することなく独身のまま過ごした。

酒が好きで、酔っては剣舞を舞った。 昭和2年(1927年)10月12日、88歳、幕末最強の女性剣士はこの世を去った。