歴史ファイル

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

【新選組 全隊士③】 新選組ができるまでに入隊

文久3年(1863年)6月頃

蟻通勘吾 ゾンビ隊士

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讃岐国出身。文久3年6月頃入隊。 池田屋事件、三条制札事件、天満屋事件など多くの出来事で活躍した。 会津戦争白河口の戦いで一番槍を果たすが、斬りこんだ際に狙撃され重傷を負い、倒れて動かなかったため、中島登に「蟻通勘吾、戦死」と記録された。が、実は生きていて、刀を杖に自陣に帰還した。 土方に従い蝦夷へ。箱館で傷が悪化し重体に陥り、これまでかと思われたが奇跡的に回復。 箱館山の攻防に参加。新政府軍の猛攻を受け、ついに箱館戦争で戦死した。

尾形俊太郎 副長助勤・諸士調役 諸士取調役兼監察方及び文学師範

肥後国熊本藩出身。文久3年5月頃に壬生浪士組に入隊。 近藤勇の信頼が厚く、政治的ブレーンとして重用され、近藤の江戸域や長州出張などに同行した。 鳥羽伏見の戦い甲州勝沼の戦いなど転戦し、会津戦争の最中に行方不明になる。 2013年、子孫が寄贈した文書の解析により、会津の後は熊本に戻り塾を開いていたことが分かった。 会津で負った傷が元で晩年は視力を失っていた。大正2年、75歳で死去。

河合耆三郎 勘定方・小荷駄方

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播磨国出身 実家は商家・米問屋で裕福だった。大阪の商家に嫁いでいた妹の勧めで入隊した。 勘定方に任命され経理面を任され、池田屋事件にも参加している。 慶応2年、公金取扱に関して不備があったことから切腹させられた。理由は諸説ある。 切腹を聞いた親は大変怒り、新選組が立てた墓とは別に息子を供養するための立派な墓を建てた。

御倉伊勢武 国事探偵方 長州藩の間者

文久3年6月頃、荒木田左馬之輔、越後三郎、松井龍二郎、楠小十郎と共に入隊。 京都の天誅組浪士と自称していた。 実際は長州藩の間者で、新選組の内部を探っていたが、入隊以前から目をつけられていた。 文久3年9月25日、永倉暗殺計画を立て実行したが未遂に終わり。翌日、結髪中のところを背後から斉藤一に刺されて殺害される。

荒木田左馬之輔 国事探偵方 長州藩の間者

御倉伊勢武、越後三郎、松井龍二郎、楠小十郎と共に入隊。 京都の天誅組浪士と自称していた。 実際は長州藩の間者で、新選組の内部を探っていたが、入隊以前から目をつけられていた。 文久3年9月25日、永倉暗殺計画を立て実行したが未遂に終わり、翌日、壬生屯所内で御倉伊勢武と共に結髪中のところを林信太郎によって斬殺された。

越後三郎 国事探偵方 長州藩の間者

御倉伊勢武、荒木田左馬之輔、松井龍二郎、楠小十郎と共に入隊。 京都の天誅組浪士と自称していた。 実際は長州藩の間者で、新選組の内部を探っていたが、入隊以前から目をつけられていた。文久3年9月25日、永倉暗殺計画を立て実行したが未遂に終わり、翌日沖田総司藤堂平助に襲撃されるが松井龍二郎、 松永主計と共に脱走。池田屋事件に列席していたが脱出に成功し、維新後は海軍に出仕した。

松井龍二郎 国事探偵方 長州藩の間者

下野国宇都宮出身 北辰一刀流 御倉伊勢武、荒木田左馬之輔、越後三郎、楠小十郎と共に入隊。 京都の天誅組浪士と自称していた。 実際は長州藩の間者で、新選組の内部を探っていたが、入隊以前から目をつけられていた。文久3年9月25日、永倉暗殺計画を立て実行したが未遂に終わり、翌日沖田総司藤堂平助に襲撃されるが越後三郎、 松永主計と共に脱走。

松永主計 国事探偵方 長州藩の間者

御倉伊勢武、荒木田左馬之輔、越後三郎、楠小十郎と共に入隊。怪しまれないために遅れて入隊したとも。 京都の天誅組浪士と自称していた。 実際は長州藩の間者で、新選組の内部を探っていたが、入隊以前から目をつけられていた。文久3年9月25日、永倉暗殺計画を立て実行したが未遂に終わり、翌日沖田総司藤堂平助に襲撃されるが越後三郎、 松井龍二郎と共に脱走。

楠小十郎 国事探偵方 久留米藩の間者

京都出身。 目がぱっちりして色白で女性のような優しい声をしていた。美男五人衆の一人。 長州藩の間者、御倉一統と言われるが定かではない。 新選組屯所の門前でぼんやりしていたところを原田左之助に切りつけられ、水菜畑まで逃げるが息絶えた。 その光景を八木家次男・為三郎が目撃していた。 松永らと共に逃げたが捕まった後、藤堂に切り殺されたとの説もある。

馬越三郎

徳島藩出身。大太郎ともいう。美男五人衆の一人。剣術の腕前は抜群であった。 男色家の武田観柳斎に惚れられてしまい、副長・土方に訴えて脱退が認められた。これは子母澤寛新選組物語の創作だといわれる。 武田観柳斎薩摩藩邸宅から出てくるところを目撃し、情報が漏洩したと考え局長・近藤に報告。その後武田は暗殺される。 仲間を売ったことで風聞が流れてしまい白眼視された。隊内の風紀を問題視した土方は金を渡し脱退させた。 脱退後はガラス商になった。

山野八十八

加賀出身。美男5人衆の一人。文久3年(1863年)に入隊。 新選組屯所近くにやまと屋という茶屋があった。娘が美人だったため皆狙っていたが、娘は山野に惚れ二人の間に一女が生まれた。 神道無念流の免許皆伝だった片目の剣士・平山五郎は相当の腕前だったが、山野は平山を相手に10本中6本とることができたといわれ、剣術も確かなものがあった。 王政復古後の鳥羽伏見の戦いから箱館戦争まで参加したが、土方の好意で離隊した。 維新後、京都の菊浜小学校で小使を務めた。 やまと屋との女性との間に生まれた娘は祇園の売れっ子の芸者になっており、山野を探し続け、ついに再開し共に生活を送った。

安倍十郎 種田流 砲術師範 伍長

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出羽国出身。谷万太郎の弟子。 池田屋事件の前に新選組を脱退したが、伊東甲子太郎が入隊する際、友人の浅野薫に新選組に再入隊するように誘われた。ぜんざい屋事件で大阪焼き討ち計画を阻止したことを評価され新選組に復帰した。 しかし、伊東甲子太郎御陵衛士を結成すると伊東についていき再度脱退。油小路事件を経て、復讐のため伏見街道近藤勇を狙撃したが失敗した。その後、赤報隊を結成し鳥羽伏見の戦いに参加した。 明治5年、開拓史として北海道へ。退官後、阿部果樹園を経営しリンゴ栽培で成功。北海道果樹園協会を設立。品評会で「阿部一号」が一等を獲得した。

尾関雅次郎 監察方兼諸士調役 伍長

大和国出身。兄に尾関弥四郎。 旗役として行軍の先頭を任されていた。局長・近藤に反発した永倉、原田、斎藤、島田、葛山らとともに建白書を提出した。鳥羽伏見の戦いでは行軍世話役として参加。会津では差図役、箱館戦争にも参加している。降伏後は故郷の奈良へ帰った。

奥沢栄助 伍長

文久3年6月頃入隊。 池田屋事件で近藤隊に属す、一番手で突入するが重傷を負い屯所で死亡した。 死後、会津藩は功労金20両を与えた。池田屋事件での新選組側の死者は奥沢のみである。

篠塚峰蔵

文久3年6月頃入隊。 池田屋事件の後、旧主より強い要請があり、新選組を脱退した。

宿院良蔵

京都出身。文久3年6月頃入隊。 入隊時ではすでに40歳を過ぎていた。隊内で古参中老と呼ばれていた。 池田屋事件では土方隊に属し屋外の守備を担当した。 鳥羽伏見の戦い、その後の橋本の戦いで戦死。死亡時は47-48歳だとされている。

柳田三次郎 柔術師範

阿波出身。京都出身。文久3年6月頃入隊。松原忠司とともに柔術師範を務める。 慶応3年(1867年)、友人の村田左衛門に隊内の機密情報を漏洩。その後、新選組を脱走。 脱走当時の柳田は50歳前後とされ、隊の最高齢であった。梁田佐太郎と同一人物とされる。

土方対馬

文久3年(1863年)6月頃に壬生浪士組に入隊。対馬は通称で本名ではない。 翌年の池田屋事件の前までに離隊した。

森六郎

文久3年(1863年)6月頃に壬生浪士組に入隊。 翌年の池田屋事件の前までに離隊した。

松崎静馬

文久3年(1863年)6月頃に壬生浪士組に入隊。 永倉新八の建てた板橋の石碑の中には病死と記されている。 翌年の池田屋事件には名前がないのでそれまでに死亡した。

藤本彦之助

文久3年(1863年)6月頃に壬生浪士組に入隊。 翌年の池田屋事件の前までに離隊した。

伊藤与八郎

文久3年(1863年)6月頃に壬生浪士組に入隊。 翌年の池田屋事件の前までに離隊した。

上田金吾

文久3年(1863年)6月頃に壬生浪士組に入隊。 翌年の池田屋事件の前までに離隊した。上田清蔵と同一人物といわれている。

和田隼人

文久3年(1863年)6月頃に壬生浪士組に入隊。 翌年の池田屋事件の前までに離隊した。

中村久馬

文久3年(1863年)6月頃に壬生浪士組に入隊。 翌年の池田屋事件の前までに離隊した。

菅野六郎

紀伊国出身。北辰一刀流・新徴組剣術教授方・柏尾馬之助の門弟。 文久3年(1863年)6月頃に壬生浪士組に入隊。 翌年の池田屋事件の前までに離隊した。

尾関弥四郎 勘定方

大和国出身。尾関雅次郎は弟。 文久3年(1863年)6月頃に壬生浪士組に入隊。 翌年、池田屋事件に参加したが、心臓病を患っていたため除隊した。 幕府典医・松本良順は当時の隊士の健康状態について、「難病は心臓病と結核のみ」と記されている。 これは沖田総司と尾関弥四郎のことだと思われる。 慶応元年(1865年)11月に死去した。