歴史ファイル

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【杉谷善住坊と信長】日本史上初の鉄砲による暗殺!!歴史を変える一発の銃弾

鉄砲が発明されて以来、戦い方が変化した。 剣や槍の実力をいくら上げようが、鉄砲の一発の玉にあたってしまえばひとたまりもない。 日本では1543年に火縄銃が種子島に上陸して以来、国産の火縄銃が大量に製造された。 ちょうど戦国時代だった日本で、火縄銃の生産量は年々増加し、関ヶ原の戦いが勃発するころには世界最大の銃の保有国となっていた。

戦国時代にこれだけ火縄銃が広がると、銃の名手と呼べるものが出てきてもおかしくない。 戦で剣や槍で名を挙げた者が多くいる一方、戦国のスナイパーと呼べる侍がいた。

杉谷善重坊

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出身は甲賀五十三家のひとつ杉谷家の杉谷与藤次の子として生まれた。 甲賀五十三家は近江・六角家に味方している地侍で、甲賀流忍術で有名な忍者だった。 その他、善住坊の前半生は謎が多く、勢州朝熊の僧だったとも、雑賀衆、賞金稼ぎだったともいわれている。

南近江・六角氏の戦い

近江源氏の流れをくむ六角氏は、鎌倉時代から南近江を支配していた守護だった。 戦国時代の当主は六角義賢(承禎)。 近江は足利将軍のいる京に近いこともあって、多くの戦いを経験している。

1558年、13代将軍・足利義輝を守り、三好長慶とたびたび戦いをしていたが、敗戦続きだった。『北白川の戦い』のあと、足利義輝と三好長慶の和睦を仲介し、義輝を京に戻した。 その後、対立していた北近江の浅井久政が進行してきたが、六角承禎はこれを撃退。浅井氏を従属させた。 1560年、久政の嫡男・浅井長政が六角領に侵攻。『野良田の戦い』で六角は大敗してしまう。 美濃・斎藤氏と同盟を組み、浅井氏に対抗するが、戦況は変わらなかった。 『将軍地蔵山の戦い』、『久米田の戦い』で三好氏に勝利すると山城国を占領したが、『教興寺の戦い』で三好長慶と和睦すると、山城国から撤退してしまった。 その後も三好氏や浅井氏らと押したり引いたりの戦いを繰り返した。 f:id:Katemato:20200210224127j:plain 1568年、六角氏の運命を変える侵攻を受ける。 戦国の魔王・織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角氏の領地は危険に晒される。 六角承禎に信長は従軍するよう要請してくるが、三好三人衆と手を取り、信長に反発。 その後、六角氏は『観音寺城の戦い』で全面対決をしたが大敗し、甲賀郡に本拠地を移した。

信長暗殺計画

1570年、信長は越前の朝倉家に攻め込むと、信長の義弟・浅井長政が裏切り信長は命からがら京へ逃げ延びた。(金ヶ崎の退き口) 小谷城を拠点とする浅井長政は、近江北部を領有していたため、この裏切りによって、甲賀に潜伏いている六角承禎と甲賀忍者は、信長の逃げ込んだ京と本拠地の美濃を分断した形になった。

信長は反勢力に備えるために美濃に戻らなければならなかったが、近江を通れないため、日野城主・蒲生賢秀父子らの案内で南伊勢を通る計画を立てていた。 しかし、情報戦に強い甲賀忍者は『信長暗殺』を計画。

そこで白羽の矢が立てられたのが鉄砲の名手、杉谷善住坊。

信長暗殺実行

信長は家臣団を左右に引き連れて周りを囲ませているため、狙撃するには難易度が高い。 街道沿いでは善住坊の姿が隠せないため適していない。 そこで、話し合いの結果、『千草峠』を選んだ。 峠には岩がいくつもあり、身を隠す場所が多い。道が険しいため、自然と隊列が長くなり厚みが減っていく。

1570年5月19日、日本史上初めての鉄砲による暗殺計画が実行される。 善住坊は千草峠に入り、身体が全体が隠れるほどの大きな岩陰に隠れ、信長一行を待った。 しばらくすると、信長が姿を現した。善住坊は、火薬と弾を込め、縄の火を火蓋の上に備え、 火縄銃を構えた。 f:id:Katemato:20200210224156j:plain

信長公記

千種峠にて鉄炮打ち申すの事 日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善住坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄炮を相構え、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鍔の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。

訳 蒲生右兵衛門、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門は千草越えを命じられ、信長に同行していたところ、杉浦善住坊という者が、六角承禎に命じられ、千草峠山中で鉄砲を構え、およそ12,3間(22メートル)のところで信長に*¹二つ玉を撃ち込んだ。しかし、運良く、信長の身体をわずかにかすっただけで、その場を逃れ、めでたく五月二十一日、美濃の岐阜城へ帰陣した。

*¹二つ玉とは、2回射撃した、もしくは弾を2発込めた威力の強い強薬のどちらかといわれている。

暗殺し損ねた善住坊はその場から離れ、山中に逃げて行った。 f:id:Katemato:20200210224244j:plain

処刑

岐阜に帰った信長は激怒し、賞金を懸け善住坊探索を徹底的に行った。 善住坊はなぜか遠方には逃げず、近江国高島郡堀川村の阿弥陀寺に潜伏していた。 遠方へ逃げなかったのは、次の機会を伺っていたのかもしれない。 狙撃から3年後、この地域の領主・磯野員昌に捕縛された。 信長に引き渡され、尋問を受けた後、戦国時代でも残酷な刑に処されることになった。 『鋸挽きの刑』 鋸挽きの刑は、首から下を土中に埋め、被害者親族や通行人に1,2回ノコギリを挽かせ、ゆっくりと時間をかけて首を切断させる刑罰だ。 江戸時代になっても、もっとも重く残酷な刑罰の一つとなっている。 善住坊は、鋸挽の刑を受け、4、5日かけて苦しみの中で絶命した。

銃撃の起きた1570年から12年後、信長は本能寺の変で明智光秀に暗殺される。 ちょうど今、NHKで大河ドラマ『麒麟が来る』が放送されているが、杉谷善住坊の狙撃が成功していたら、主人公は明智光秀ではなく、杉谷善住坊だったかもしれない。