歴史ファイル

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【上杉鷹山ー前編】260億円の借金を背負った男 日本が誇る名君

第35代アメリカ合衆国大統領にジョンFケネディが就任した際、日本の記者団から「日本で一番尊敬する人物は誰ですか」と質問されたことがある。

ケネディが答えた人物――――

米沢藩主・上杉鷹山

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目次

関ヶ原の戦いの敗戦、米沢へ大減封

『軍神・上杉謙信』の後を継いだ『上杉景勝』は豊臣秀吉の信頼を得て五大老の一人となった。拠点を会津120万石に移し、戦国屈指の大名となっていた。 ところが秀吉が死去してから2年。五奉行筆頭・石田三成と五大老筆頭・徳川家康の間で対立が激しくなってくる。 家康は各大名に自分につくように求めていたが、上杉景勝はこれを拒否。 さらに家康の方針を批判した『直江状』を家康に突きつけると、家康は『会津討伐』を決断。すぐに兵を起こし会津へ向かう。その隙をついて石田三成は家康討伐のために挙兵。 家康は会津征伐を断念し、西へと取って返した。 そしてついに、石田三成率いる西軍、徳川家康率いる東軍が『関ヶ原』で激突。

上杉景勝は関ヶ原へは行かず、伊達家と最上家と対陣した。関ヶ原の戦いは長期戦になると予想されていたが、わずか『6時間足らずで西軍の敗北』に終わり、それを知った上杉景勝も撤退。

戦後、上杉景勝は家康に謝罪するも、所領を減らされてしまうこととなった。 会津120万石から『米沢30万石への大減封』だった。 f:id:Katemato:20200225195442p:plain

財政難に次ぐ財政難

普通であれば人員削減を行うところ、謙信以来の『義の精神』を貫き、120万石時代の家臣6000人をそのまま米沢にも連れてきた。 また家臣たちも上杉家に仕えることを誇りとしていて、離れる者も少なかった。 通常30万石であれば、2000人以下程度の家臣の人数が普通であったことを考えると、あきらかに過剰な家臣団の数となった。 そのため人件費だけで膨大な出費となり、米沢上杉家は『慢性的な赤字状態』となった。 江戸幕府が始まると、各藩は『参勤交代』の義務が課せられ、農村が疲弊し、農民が他藩へ逃げ出してしまうという有様となってしまった。

さらに『3代藩主・綱勝』は、子がいないまま26歳で早世してしまい、『無嗣子断絶』の危機に陥った。 徳川幕府の藩に対する法律で、相続する子がない場合はその藩は断絶し、他家にひきわたされるというものがあった。実際江戸時代で70を超える無嗣子断絶があった。 保科正之の仲介で『高家・吉良義央』の長男・三之助(上杉綱憲)が養子に入ることで家名は存続を許された。 ***ちなみに吉良義央は『忠臣蔵』で有名なあの吉良上野介。 しかし、この騒動に対する罰則ということで、30万石だった領地をさらに没収され、15万石にまで縮小し、財政難に拍車をかけることとなった。

大人数の家臣団の俸禄は13万石にも及び、藩の収入の88%は士農工商の士に費やされ、その負担は庶民にのしかかった。『借金の量は20万両』にも及んだ。現代の価値にして260億円にものぼる。

九州の田舎藩からの養子

『8代藩主・上杉重定』の時代になると、1755年の大凶作が起き、打ちこわし事件などが相次いだ。 借金がさらに増加し、財政がさらに逼迫する中、1759年、重定は九州の日向国高鍋藩6代藩主・秋月種美の『次男・松三郎(後の上杉鷹山)』を養子に迎えることとなった。 松三郎は*¹折衷学者・細井平洲を師とし、「民をみるときに、怪我人をみるように、飢えている人がいたら、自分が飢えているように思えなければ殿様にはなってはいけない」と教育を受け、熱心に勉強した。

1766年に元服した松三郎は、翌年の1767年に『治憲』と改名し家督を相続する。 日本で一番最悪の状況にある東北の一国の藩主となった。

*¹折衷学者とは、江戸中期の儒学の一派。朱子学、陽明学のなどの長所のみをとるという説を唱えた学者たちの総称。

幸姫(よしひめ)と人形

治憲が上杉家に婿養子に入った際の許嫁は『重定の娘・幸姫』だった。 幸姫は発達障害を患っていて(現代でいう小児麻痺のような)、言葉を発することも出来ない状態だった。 2歳下の幸姫に対し、治憲はやさしかった。時間があるときはなるべく幸姫と時間を共にし、玩具遊びや人形作りなどを使って一緒に遊んだ。

ある日、治憲が与えた白い人形に、幸姫は不自由な身体を必死に動かし、人形の顔に何かを書き始めた。うまく筆をとることもできず、手を墨で真っ黒にしながら、繰り返し繰り返し失敗するたびに治憲が新しい人形を作り直して渡した。数日後、幸姫は初めて人形に顔を描くことができると、治憲に手渡し、「ヨシ、ヨシ」とたどたどしい言葉で、自分の顔だと治憲に熱心に伝えた。 純粋無垢に振舞う幸姫に対し、治憲は勇気づけられた。

領地返上

わずか17歳で家督を継いだ治憲は、『家老・色部照長』から財政破綻の危機から救う提案を受けた。

『領地返上』。

徳川幕府に領地を返上し、上杉家は大名を辞める、ということだった。米沢に移転して以降、上杉家は財政難の苦しみを何十年と味わってきた。家臣たちの疲労は限界に達していた。 しかし、そんなことを実行してしまったら、藩士すべてが浪人に成り下がり路頭に迷うことになる。 治憲がまず初めに決めたこと、それは『藩政は返上しない』ということであった。

仲間集め

治憲の生まれた高鍋藩秋月家は九州の田舎小藩で、わずか2万7千石で家臣は400人、総人口3万しかいない。伝統、格式を重んじる米沢上杉家の家臣団は、田舎から来た治憲を上杉家の高位な伝統や習慣など知らないただの若造だと下に見た。治憲は一人だった。

しかし改革は一人ではできない。そこで自分の信念を体現できる家臣を必要とした。 米沢藩は開藩以来、形式主義、事大主義にとらわれ、細かいことにも作法が定められ動きが取れない。さらにそれには金の支出を伴うことが多かった。その作法に反する場合は藩内で村八分に合い、生きていけなくなる。

治憲は、逆に藩内で仲間外れにされている人物に目をつけた。そういう人物こそ藩に対して何か意見を持っているかもしれない、良い提案があるかもしれないと思った。治憲は『小姓の佐藤文四郎』に尋ね、4名の人物を紹介された。

農政専門家の『竹俣当綱』 財政専門の『莅戸善政(のぞきよしまさ)』 民政家の『木村高広』 医者で、治憲の師・細井平洲の友人である『藁科松柏』

藩政改革案

治憲はこの4人を中心に改革案を練らせた。竹俣らはそれからずっと部屋に閉じこもったきり、提案をし議論をしては、再度その案を改定してはさらに議論を繰り返すといった具合で、朝から晩まで夜も眠らずにいた。 こうして出来上がった改革案は治憲に伝えられた。

・江戸の米沢藩邸の奥に努めている女中は50人いる。その人数を9人に減らす。

・伊勢神宮の参拝は京都居留守役が行う

・行列は減員

・年間の祝いの行事はすべて中止か延期

・宗教上の行事はすべて中止か延期

・建物の修理は公務用以外は行わない

・または住居や、台所、厩などであまり使わない場所は簡単な修理にする

・衣類は木綿にする

・幸姫(治憲の妻)も木綿を着る

・食事は一汁一菜

・贈答の習慣は禁止

治憲は江戸の藩邸にいる家臣団に向けてこの改革案を発表した。藩士たちはどよめき、古参の家臣団は真っ向から反対してきた。しかし治憲は折れることなく、藩士を進めた、江戸で改革を実験する。悪いところは直す。そして案を固めた後、米沢本国で実行する。すべては江戸の実験にかかっている。どうか協力してほしい。と藩民のための政治を行うという決意を示した。

家老・色部照長は治憲に家臣一同に倹約を仰せ付けられるならば、ご自身も倹約をしなければ従わないと思いますと反論してきた。治憲は、藩主としての生活費を1500両から200両に減らすことを約束した。

治憲は自作の歌を詠んだ。 『受け継ぎて 国の司の身になれば 忘るまじきは 民の父母』 (藩主となったからには、忘れてはならないのが、民は自分の子供として、父母のような 気持ちで藩政を司ることである)

灰の国、米沢本国へ

1769年、治憲は江戸の藩邸に養子に入って以来、初めて米沢本国へ入ることとなった。

上杉家が江戸と米沢へ往復する場合は、謙信以来の遺風を守り、平和になった江戸時代でも戦国時代の出陣さながら、先頭に鉄砲隊を立て、1000人近い共をつれての行進だった。 治憲は米沢本国へ戻る際のこの習慣を廃し、共の人数を数十人に減らし、武具を着るのをやめ、木綿の着物を着た。江戸藩邸から見送る家臣の一部はあまりのみすぼらしさに涙を流し、一部は自分が共でなくてよかったと冷ややかな目で見送った。

物乞いのような恰好をした一行は米沢に入ると、宿泊予定地の板谷宿に入った。治憲はその廃村寸前のような村に衝撃を受けた。荒れ果てたと道と田畑が続き、住民は税の重さに耐えきれず、大勢が逃げてしまっていて、通りにいる人があまりに少なかった。彼らは冬だというのに夏物を着て、覇気なく体をこわばらせながら霊の如く歩いていた。夜は火を付けられないほど困窮していた。新しい藩主を迎えようとつらい気持ちを抑え迎えにでて、新藩主・治憲が姿を現すと道端にひれ伏した。

道中、駕籠の中にある灰皿を見た治憲は、この国はこの灰と同じだと思った。 人々の心は死んでいる。 彼らを救うことができるだろうか。改革をしたところでどれほど領民の生活が改善されるのか。多くの反対者の気持ちを変えることができるのか。治憲は自問自答して不安になった。ふと、そばにあった煙管で灰をかき回してみた。すると灰皿の中にまだ燃えている火種があるのを発見した。 治憲は、まだ生きている。そう思った。  火種は新しい火を起こす。さらにその火は大きくなる。あきらめてはならない。米沢藩を何とかしたいと願う意思のある者の心の中にもきっとその火種はある。治憲はその火を消してはならないと思った。

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