歴史ファイル

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

【アフリカン侍・弥助】 信長の最期を見届けた外国人武士 

【アフリカン侍・弥助】 信長の最期を見届けた外国人武士 

目次

戦国時代、ポルトガルやスペインをはじめとしたヨーロッパは『大航海時代』真っただ中で、多くの西洋の宣教師や商人が日本を訪ねてきていた。 中でも有名なのが歴史の教科書にも出てくる宣教師の『フランシスコ・ザビエル』や『ルイス・フロイス』らだ。

彼らの乗っていた『ガレオン船』には100人を超える乗員がいたと思われる。 (***正確な人数は調べられませんでした) 彼らが連れてきた従者の中に、後に『弥助』と名付けられる『アフリカ出身の青年』がいた。

出身地 

弥助に関する資料は非常に少なく、出生地や誕生日などについては記録が残っていない。 彼の人生は1579年から1582年まで、『信長公記』や『キリシタン文書』にわずか数年の記述があるのみで、いまだに多くが謎のままだ。

出身地はエチオピアやナイジェリア、スーダンなどいくつかの説があるが、モザンビークの出身ではないかというのが有力である。

弥助は幼少期にアラブかインドの奴隷商人によって拉致され、中東、インドへと連行されたといわれている。その後、インドのゴアを拠点にしている、イエズス会宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが従者兼護衛として買いとったと言われている。 ***奴隷だったかどうかはあくまで憶測で、弥助の能力を考えると、ちゃんとした教育を受けて育ったのではないかと思われる。 f:id:Katemato:20200301151116j:plain

ヴァリニャーノ

『ヴァリニャーノ』というイタリア人宣教師がいた。 1539年、イタリアの名門貴族の家に生まれた。彼はパドヴァ大学で法学を学び、聖職者を目指していた。さらにその後は神学を学びイエズス会に入会し、1570年には司祭になった。

1573年に、東洋アジアの東インド管区の巡察師に抜擢され、翌年リスボンから出発した。 ヴァリニャーノはモザンビークに寄港し、後にインドのゴアに到着。弥助とはこのモザンビークかゴアで出会った。

ゴアを拠点とし、アジア各地をまわったヴァリニャーノはマカオに滞在した後、1579年7月25日、『長崎の口之津港』にたどり着いた。 巡察師として日本各地をまわり、後にキリシタン大名として有名になる、大友宗麟や高山右近などと謁見した。

ヴァリニャーノの率いるイエズス会は京都に到着した。 すると京都の町は弥助を見ようと大騒ぎになり、道は見物人で溢れかえった。人が集まった道の一部では喧嘩騒ぎがあり、暴動化して怪我人が出るほどだった。

その騒ぎを聞いた『織田信長』は、彼らに対し面会を要求し、もともと面識のあった宣教師オルガンティーノの仲介で京都の本願寺で面会した。 f:id:Katemato:20200301151204j:plain

来日・謁見

1581年4月、ヴァリニャーノは織田信長に謁見した。 その場に従者として連れらていた弥助を見た信長は、はじめて見るアフリカ出身者に肌に墨を塗っているのではないかと信用しなかった。 服を脱がせて体を引っ張ったり、こすったりしたが変化はなく、洗わせたところ、白くなるどころかより一層黒く光った。

実は、弥助は来日してからこの時点ですでに片言の日本語をしゃべれた。信長にアフリカやインドでの生活を話し、信長に気に入られ意気投合した。 それだけ気に入ってもらえるならとヴァリニャーノは献上品として差し上げますといい。ヴァリニャーノから譲り受けた。信長は直ちに宴会を開いて敬意を表した。

信長から『弥助』と名付けられ、小姓の一人として信長に仕えることになり、信長と食を共にする数少ない家臣となった。

また弥助は、踊りも好きだった。スワヒリ語で英雄を称える歴史的な叙事詩『ウテンジ』を披露して信長に絶賛された。 f:id:Katemato:20200301151249j:plain

容姿、体力

弥助は、他のアフリカ人の例にもれず、日本人をはるかに凌駕する身体能力を持っていた。 信長は弥助を10人力の剛腕とほめたたえた。

年齢は26-27歳前後。 身長は6尺2分(約182センチ)と当時の日本人と比べるとかなり大柄だった。 戦国時代の平均身長は154㎝(***いろいろな説があるが)

以下は有名な大名の身長 豊臣秀吉 140㎝ 武田信玄 153㎝ 伊達政宗 159㎝ 徳川家康 159㎝ 上杉謙信 160㎝ 織田信長 170㎝

武士として

弥助に関する禄高の記録は残っていない。小姓として信長の警護や奉公人のようなことをしていた。わずかな期間で正式に『武士』として刀と私邸、従者も与えられた。信長は将来的にはどこかの城主にしてやろうとまで考えていた。

次第に日本語も上達し、信長と戦場へ出るようになった。 1581年、弥助の初陣は織田軍による伊賀侵攻だった。

しかし、弥助にとって充実した時間はそう長くは続かなかった。 弥助が信長と謁見して家臣になってからわずか1年。 その時が来てしまった。 f:id:Katemato:20200301151335j:plain

本能寺の変

1582年(天正10年)6月21日、本能寺の変が勃発。 信長の小姓だった弥助も、もちろん信長と共に本能寺に宿泊していた。

明智軍の襲撃に対し、弥助は決して引くことなく奮戦したが、明智軍1万3千人に対し、信長は近習100人前後のみしかおらず、多勢に無勢。 勝てる見込みのないことを悟った信長は本能寺に火を放った。

信長は弥助に首と刀は、息子・信忠に届けるよう命じた。 その後、信長は敦盛を舞った後自害して果てた。

弥助は信忠に異変を伝えに二条新御所に行き、信忠を守るために明智軍と再び交戦した。 しかし、長時間に渡る奮闘むなしく信忠の軍も壊滅し、明智家臣に恐れずに刀を差しだせと言われ投降した。

その後

信長の死後、弥助に関する記録はますます少なくなる。 本能寺の変の後、明智軍に捕縛されたが、日本人ではないという理由で解放され、南蛮寺に送られた。

その後の弥助の行方はわからない。

一説によると弥助は信長の首を持って逃げたと言われ、その首をもとに作られたデスマスクが残っている。 f:id:Katemato:20200301151421j:plain