『軍神』と恐れられた『越後の龍・上杉謙信』は戦国時代において最強と名高い。
15歳で初陣を飾り、見事に敵を壊滅させた。19歳で家督を相続すると27歳で越後を統一。
生涯70の戦を経験し、68勝2敗という戦国時代最高の勝率を誇る。
本人は主に義理をもって戦をしていたので、天下統一戦には参加しなかかもしれないが、49歳で急死していなければ信長・秀吉・家康と続く天下統一ストーリーも変わっていたのは間違いない。
その戦国最強の上杉謙信の関東侵攻のターゲットになったしまった城がある。
『臼井城』
下総国(現:千葉県佐倉市臼井田)にある平城だ。
上杉軍1万5千の兵に対し、臼井城を守るのはわずか2千。
8倍の兵力差の前に絶望しかなかった城内に偶然居合わせた『謎の軍師』。
歴史に埋もれているマイナーな人物で、歴史ゲームで有名な信長の野望にも名前がない。
その人物の名は『白井胤治』
【幻の天才軍師・白井胤治】軍神・上杉謙信に唯一勝利した隠れた英雄
上杉謙信の関東侵攻
●関東侵攻
1565年(永禄8年)11月
安房国の『里見氏』が『相模の獅子・北条氏』に攻撃され追い詰められていた。
『毘沙門天の化身・上杉謙信』は、これを救援するために三国峠を越え上野国(現:群馬県)に入った。
関東の諸将に動員を掛け、上野、下野、常陸などの軍勢を合わせ1万5千の兵力で南下し始めた。
(***上杉謙信は越後の大名だったが『関東管領』という関東地方の長官のような役職も兼任していた。もはや形骸化していたが、謙信はその責任は忘れていなかったと思われる)
●不死鳥・小田氏治逃亡
上杉謙信の今回の目標となっていたのが、北条氏に味方をしていた下総(現:千葉県)の『千葉氏』。
里見氏と連携して、ここを拠点に印旛沼や利根川水運を手に入れようと画策していた。
2月、手始めに下野国の唐沢山城を攻撃。北条氏康が後詰をしてこないことを確認すると、南下して常陸国の戦国の不死鳥と呼ばれた『小田氏治』を攻めた。
突然の謙信襲来に小田氏治は驚き、2月中旬には小田城を開城して降伏し城を逃げた。
(***小田氏治はその後、奇跡的な復活を遂げるがそれはまた別の物語)
その後は高城氏の守る『下総・小金城』が攻撃を受けた。
●臼井城ロックオン
3月、上杉軍はさらに南下して結城、小山、里見、足利など上杉派の周辺勢力を吸収していき軍勢は3万にも達し、『千葉氏・千葉胤富』の領土がある下総国に迫った。
上杉謙信がターゲットにしたのが、千葉胤富の家臣『原胤貞』が守っている『臼井城』だった。
1万5千もの大軍で城を囲み、臼井城はまさに風前の灯火となった。
(***里見氏:房総半島の南部に勢力を持つ里見氏は、北条氏の侵攻を受け滅亡寸前だったが、この上杉謙信の関東入りによって窮地を脱した。)
●援軍依頼
上杉軍1万5千に対して臼井城にはわずか2千の兵しかいなかった。
城主・原胤貞は千葉氏、小田原の北条氏に援軍を依頼した。
千葉胤富は本拠地である本佐倉城の防衛を優先してしまい、原胤貞に対して少数の援軍を送るのみになった。
さらに千葉氏にとって最大の後ろ盾である北条氏康は里見氏と戦闘中だったため、『松田康郷』にわずか150騎(250騎とも)の援軍を送っただけとなった。
3月20日、上杉軍は本格的に臼井城に攻撃を開始。
ここに『臼井城の戦い』が始まった。
数日後には早くも臼井城は堀一重を残し陥落寸前となってしまった。
たまたまそこにいた男・白井胤治
そんな危機的状況の中、ある人物がたまたま城内をぷらぷらしていた。
白井胤治。
白井胤治は千葉氏の傍流の白井氏の出身で、父は白井三郎太郎胤永。
若い頃、兵法修行のため諸国を旅し、三好三人衆の三好長逸に仕え、上方の兵法を学んだ。
兵法を極めた後、関東に帰郷し千葉氏三代(利胤、親胤、胤富)に仕えた。
出家した後は白井入道浄三と名乗った。
(***出自や経歴については諸説ある。)
軍略だけでなく、占術も使えたため『今孔明』とその名を知られていた白井胤治は、その日なぜかたまたま臼井城に滞在していた。
臼井城の危機的状況に城主・原胤貞は、城を守るには彼の力を借りる以外ない、と城の指揮権を白井胤治に譲った。
白井胤治はその依頼を受けると城兵に向かって言った。
「このたび大敵発向すといえども、さらに恐れるべからず。敵陣の上に立つ気は、いずれも殺気にして囚老にして消える。味方の陣中に立つ気はみな律義に王相に消える間、敵は敗軍疑いなし」
(訳:敵は大軍で攻めてきているといえども、恐れることはない。敵陣の上に立つ気は、どれも殺気に満ちているのですぐに衰える。味方の陣中に立つ気は律義で正しい気なので、敵が敗北するのは疑いない)
絶望の淵に立たされていた臼井城の兵士は、白井胤治に鼓舞され士気が上がった。
総攻撃と総攻撃
3月26日
上杉謙信は重臣・長尾景長、下野足利の千手院に「落居程有るべからず候」と書簡を送った。
(訳:これぐらいの小城、何のこともない。さっさと攻め滅ぼせ)
上杉軍の総攻撃が始まった。
究極の劣勢に立たされた白井胤治は、当然籠城するかと思われたが、何を思ったか突如臼井城の城門を全開にして城兵に総攻撃を命じた。
反撃してくるとは夢にも思っていなかった上杉軍は、突然の攻撃に不意を突かれ皆驚き浮足立ってしまった。
白井胤治は三段構えの作戦をとり、まずは『原大蔵丞』と『高城胤辰』が先陣として上杉軍に突撃し暴れるだけ暴れた。次に第二陣の『平井』『酒井』が上杉軍の兵間を突撃し道を切り開いていく。
大混乱に陥った上杉軍は次々と討ち取られていく。
そして第三陣。北条から援軍に来ていた『松田康郷』が城から姿を現した。
赤鬼・松田康郷
臼井城危機の一報に対して、北条氏を含めた北条派からの援軍は松田康郷が率いてきたわずかな150騎だけだった。1万5千もの大軍を前にして本当にわずかな数だった。
松田康郷の軍は朱色の甲冑、具足という赤備えの装備で現れた。
第三陣として上杉軍に突撃していく。1,2陣が切り開いた上杉軍のほころびの中へ突入し、次々兵を倒していく。
松田康郷は先頭を走り、敵兵を長刀で斬り殺し、刃がこぼれて役に立たなくなると樫の棒で馬上の敵を打ち倒し、素手で敵兵の首をねじ切るという大活躍を見せた。
松田康郷は敵本陣目前まで迫った。
しかし、その現実を見た上杉謙信は臼井城への攻撃を中止し、撤退を開始。その日はいったん退却した。
上杉軍はかなりの死傷者を出した。まさか落城寸前の城兵が開門して突撃してくるなんて考えもしなかったため、不意を突かれて損害が大きくなってしまった。
後に、上杉謙信は松田康郷について、「岩舟山に赤鬼の住むと沙汰しけるは、一定彼がことなるべし」と感嘆した。
(訳:岩舟山に住むといわれる赤鬼とは、彼のことに違いない)
(***岩舟山は栃木県栃木市にある日本三大霊山の1つであり、赤鬼が住むとの伝承があった。)
松田康郷は『鬼孫太郎』『松田の赤鬼』『北条の赤鬼』などの異名を取り大いに武名を高めた。
上杉軍の瓦解
翌日、上杉謙信は、兵力差はまだある。どんなに転んでもこちらが有利であることは揺るがない。
きっと敵は勢いに乗っているからいい気になって必ずまた攻め込んでくるに違いないと考えた。
上杉謙信はじっと本陣で待ち受けていたが、一向に攻め込んでくる気配がない。
『海野隼人正』は「本日は千悔日と言い、先に行動を起こすと敗れるという日です。敵城には白井胤治という名軍師がおり、おそらくその指図でしょう」と、このまま敵が動くのを待つべきだと進言した。
しかし、自分の当たりがはずれてか業を煮やしてイライラした上杉謙信は海野隼人正の助言にもかかわらず出陣を命じてしまった。
先鋒は『長尾当長』が担当した。逆茂木を壊し、堀を越え大手門まで迫った。上杉軍の攻撃はここまでは順調だった。
しかし、白井胤治はこの動きを事前に予想していた。
白井は事前に仕組んであった城壁を上杉軍めがけて押し倒し、長尾当長率いる先鋒数百人は一瞬でそれの下敷きになってしまった。
大惨事である。これに驚いた上杉謙信は、全軍に撤退命令を出そうとした。
しかし、それより早く白井胤治は上杉軍に対して総攻撃を命じた。
一瞬にして形勢逆転し、数で圧倒していた上杉軍はちりじりに退却を始めた。
上杉軍の『北条長国』や『新発田治長』が奮戦し,かろうじて撤退戦を支えているが、上杉軍には多くの死者が出た。
この戦いの上杉軍の死傷者は5千以上にのぼり、追撃を受ける上杉軍は上州まで命からがら一気に撤退し、その後、時を短く越後へ帰っていった。
この臼井城の戦いは北条側の記録や文献には記載があるが、上杉方には『謙信公御年譜』(謙信の伝記)にこの城攻めは記録されていない。
また、臼井城の戦いの詳細にも諸説あり、上杉軍を撃破したのは北条氏・千葉氏の正規の援軍が間に合ったからという説や、損害を受けたのは上杉軍ではなく、先鋒を務めていた里見氏や酒井氏であるといった説がある。
どちらが正解にしても、上杉軍が大敗したことは、その後の関東の諸勢力の動向からも信憑性は高い。
その後の関東の情勢
5月、常陸国・小田氏、下総国・結城氏、下野国・宇都宮氏、小山氏が北条氏に従属。
8月、武蔵国・成田氏、上野国・由良氏、下野国・皆川氏、が北条氏に従属。
11月、上野国・富岡氏が北条氏に従属。
その後も、上野国・館林長尾氏、下総国・簗田氏、野田氏、森屋相馬氏、上総国・土気酒井氏らがそれぞれ北条方に従属した。
さらに、上杉謙信の重臣、上野国の重要拠点・厩橋城に配置されていた『北条高広』までが北条氏へ寝返った。
(***北条高広はきたじょうと読む。安芸国の毛利氏と同族で、小田原の北条(後北条)とは関係がない)
反北条氏の有力勢力の『佐竹氏』が北条氏と和議を締結した。
また他の関東の情勢の変化により、上杉氏の関東における影響力は上野国の沼田城周辺地域のみとなり、上杉方の諸勢力への救援さえも出来なくなってしまった。
この臼井城の戦いの大敗戦により、関東全域、特に常陸や下野の豪族が上杉謙信から離反したことにより、上杉謙信の関東での支配体制は崩壊し、覇権争いの大きな後退を余儀なくされた。
白井胤治のその後の詳細は不明である。
その後
臼井城の戦いから46年後、1611年。
大阪城にいる『豊臣秀頼』に『徳川家康』が会見を申し込んできた。
母である『淀殿』は会見を受けるかどうかの正否を問うためにある人物に占わせた。
その人物は『白井竜伯』。
白井胤治は後に豊臣家に仕えたという伝承があるので、竜伯はその子孫である可能性が高い。
白井竜伯が吉凶を占うと結果は「大凶」とでた。さらに2回、3回と占うもすべて「大凶」とでてしまった。
しかし、家老の『片桐且元』は家康を怒らせてはまずいと考え、凶とでた結果を吉にすり替えて報告した。
そして結局、秀頼は二条城で徳川家康と会見した。
家康は立派に成長していた秀頼を見ると、彼の将来の可能性を恐れた。
そして、家康は豊臣家を完全につぶすことを決意した。これから数年後、大阪冬の陣/夏の陣で豊臣家を徹底的に攻撃し滅亡させることになる。
実際は白井胤治は実在が疑われている。
彼の名が登場するのは、『北条記(相州兵乱記)』や『関八州古戦録』、つまり江戸時代に書かれた軍記物で、史実として扱うかはいまだに議論されている。