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【水戸黄門と史記】 TVドラマと全然違う、徳川光圀は極悪不良少年

47都道府県の中で『茨城県』は、日本史を語る上で外せない。 特に近代史への影響は計り知れず、この地域がなければ私たちの生活や価値観が変わるぐらい大きな影響があったといっても過言ではない。 そんな茨城の英雄。徳川光圀が編纂した『大日本史』から始まる『水戸学』は、幕末の維新志士たちに多大な影響を与え『明治維新』の原動力となった。その後、明治・大正を経て昭和の軍人にも影響を与え、太平洋戦争までの日本人の思想を形作っていった。 そのような日本思想を語るうえで欠かせない人物はどんな人物だったのか。

徳川光圀

言わずと知れた、時代劇の代名詞『水戸黄門』。 主人公の黄門様が助さん、格さんを連れて全国を漫遊し、悪事を働いたものを懲らしめ、最後は将軍家の「葵の御紋」がついてる印籠を見せつけ悪者がひれ伏して一件落着、というのは有名だと思うが、実はこの黄門様こと徳川光圀、一般的に知られているよりかなり奇想天外な人物だった。

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堕胎の危機

寛永5年(1628年)、水戸藩主・徳川頼房の3男として生まれた。光圀は徳川家康の孫にあたる。 母は谷重則の娘で久子といったが頼房の正式な側室ではなかった。 頼房には正室はいなかったが、正式な側室・お勝がいた。 正式な身分でない久子が子を産んだということがお勝の嫉妬を買ってしまい、頼房は家臣の三木之次に堕胎を命じた。 しかし、三木之次は久子を密かに匿い、水戸の三木邸で久子は『光圀』を出産した。幼名を長松といった。

光圀には兄・松平頼重がいる。光圀を産む前、久子は長子・頼重を妊娠していたが、父である頼房は同じように堕胎を命じていた。三木之次に助けられ無事に出産している。

長松は三木家で育てられ、それから時が経った寛永9年(1632年)、長松は水戸城に入城。翌年、長松は水戸藩の世継ぎに決定し、江戸の小石川邸で世子教育を受け始める。 寛永11年(1634年)、長松は『三代将軍・家光』と拝謁。2年後長松は元服し、家光に偏緯を与えられ光圀と名を改めた。

***ちなみに徳川家光と光圀はいとこ

久子が光圀を産んで堕胎を命じられていたにも関わらず、長松が4年後に水戸城に入城できたのはなぜだろうか。 三木之次は、頼房の堕胎せよという命に背いたのだから何かしらの罰があってもおかしくないのだが、特にお咎めがあるどころか後に水戸藩の家老になる。要するに、これは頼房が本当に子を堕胎させたかったのではなく、裏で三木と相談し、正式な側室・お勝に見つからないように養育させたのではないだろうかと言われている。 f:id:Katemato:20190814121722j:plain

水戸の不良少年

、、、さて、ここからが本番。

三木之次のおかげで無事にすくすく育ち、少年になった光圀は、とても優秀で素直に育、、、

、、、育たなかった。

複雑な生まれが祟ったのか、みごとに『グレた』。 いや、グレたという言葉では足りない気がする。 完全にアウトな犯罪者、殺人者になった。 ドラマでは悪人を懲らしめ村人を救う黄門様・徳川光圀だが、本物の光圀はまったく逆の悪役マインド。むしろドラマに出てくる悪役なんかよりも悪い。

どういう風に悪かったのか例が以下の通り。 光圀は服を奇抜で派手な色に染め上げ、袖にビロードの襟を付けたものを着て江戸の町を練り歩いた。 他の大名の息子たちと酒屋に入り浸っては、気に入らないことがあれば刀を振り回した。 町の人々は水戸の若様は傾奇者だと噂し、とても『権現様(家康)』のお孫様とは思えないと呆れた。 女遊びが大好きな光圀は、仲間を引き連れて『吉原や浅草、千住、湯島の遊郭』に通って派手に遊んだ。 極めつけは『辻斬り』だ。刀の試し切りをするため人を斬り殺したり、神社の軒下に住んでいたホームレスを斬り殺したり、50人以上罪のない人々を殺している。 さらに、『五代目将軍・徳川綱吉』の生類憐みの令が発布された際、光圀はバカバカしいと無視して、牛肉、豚肉、羊肉など肉食を続けた。20匹の犬を殺し、それを毛皮にし当てつけに綱吉に献上した。 f:id:Katemato:20190814121551j:plain

改心

やりたい放題、暴れまくっていた光圀だが、ある転機が訪れる。 光圀が18歳の時、中国の歴史書司馬遷の『史記・伯夷伝』を読んだ。

紀元前1056年頃、古代中国の殷代末期の孤竹国に二人の王子がいた。長男は『伯夷』。三男は『叔斉』といった。 父の亜微は長男である伯夷に王の位を弟の叔斉に譲るよう伝えた。しばらくして父が死去すると伯夷は父の言葉に従い叔斉に王位に就かせようとした。叔斉が兄を置いて王位に就くことを良しとしなかったため、伯夷は国を出た。叔斉も兄を追い国を出てしまったため国は国王不在の状態になった。困った国人は次男の仲馮を代わりに王とした。

二人は周の『西伯昌(文王)』が名君との評判を聞いて周に向かったが、到着した頃には西伯昌は他界しており、息子の武王が周を治めていた。 武王は『呂尚太公望)』を軍師として、殷の暴君・紂王を滅ぼすべく軍を起こした。 伯夷と叔斉は、殷に向かう途中だった武王の前に現れ馬車を止め「父上が死んで間もないのに戦をするのが孝と言えましょうか。主の紂王を討つのが、仁であると申せましょうか」と諫めた。 護衛の兵は二人を殺そうとしたが、軍師・呂尚は彼らの言うことは正しいと制止させた。

武王は殷を滅ぼし新王朝・周を立てた。 その周で生きることを恥とした兄弟は周を離れ、首陽山に隠棲した。山菜などを採って暮らしていたがついには餓死した。 f:id:Katemato:20190814121802j:plain

西山に登り 薇を采る

(首陽山に登り、山菜を採る)

暴を以て暴に易え その非を知らぬ

(暴力をもって、暴力にかわり、その非に気づかない)

神農・虞・夏忽焉として没す 我いずくにか適帰せん 

(神農や舜帝、禹王の世は消えた。私はどこへ行けばよいのか)

于嗟徂かん 命の衰えたるかな  

(ああ、もう終わりだ。天命は衰えた)

司馬遷の『史記・伯夷伝』は光圀にとって大きな転機となった。自分と兄・頼重と自分を重ね合わせ、今までの蛮行を悔い改め学問を目指すようになった。 それは日本にとっても大きな出来事だったかもしれない。 後に光圀によって編纂される『大日本史』、さらには『水戸学』へと続く最初のきっかけとなった。