【八幡太郎と大江匡房】無駄なプライドを捨てると天下が取れるという例
武士の祖 源義家
平安時代後期、八幡太郎という人物がいた。
本名は源義家といい、後に鎌倉幕府を開く源頼朝の爺ちゃんの爺ちゃんだ。(源頼朝ー義朝ー為義ー義親ー義家)
さらに、後に室町幕府を開く足利尊氏の爺ちゃんの爺ちゃんの爺ちゃんの爺ちゃんの爺ちゃんだ。
さらにさらに、後に徳川幕府を開く徳川家康は20代後の子孫だ。他にも八幡太郎の子孫は多くいて、彼らは八幡太郎の子孫であることを誇りにしていた。
後年、白河法王の時に、武士として初めて昇殿を許され、貴族が中心だった日本の世に初めて武士の力を示した人物だった。
彼の詳しい生き様はWikipediaで。ここでは大江匡房とのワンエピソードだけです。 源義家 - Wikipedia
天才学者 大江匡房
八幡太郎こと源義家と同じ時代。
大江匡房という貴族がいた。
大江は優秀な漢学者で、他に儒学や陰陽道、兵法に通じていた。
かなり頭がよく、4歳で書を読み始め、8歳の時に史漢に通じ、11歳の時に詩を作り始め、神童と言われていた。
成人すると、朝廷に勤め、 治部少丞>>式部少丞>>東宮・尊仁親王の学士>>蔵人>> 左衛門権佐>>東宮学士>>左大弁>>従三位・公卿>> 正三位・参議>>従二位・権中納言>>大宰権帥>>大蔵卿 と、順調すぎる出世を重ねた。
こちらも詳しい生い立ちはWikipediaで。 大江匡房 - Wikipedia
八幡太郎、大江匡房との出会い
陸奥国の有力豪族、安倍氏が国府への税を納めず独立の気運を高めていたため、長年にわたる戦い「前九年の役」が始まった。
勝利を収めた八幡太郎は、京へ戻るとそこでのことを街中に自慢して回った。(実際はかなり苦戦していて、清原氏の支援によって勝利を収めた)
たまたまその場を通りかかった大江匡房の耳にその自慢話が入ってきた。 大江は嘆くような感じで呟いた。
「良い武士ではあるが、兵法を知らぬのが惜しまれる、、。」
八幡太郎は荒くれ者の集まりである武士の一族だ。無礼や名声に対する価値観が当時の人々にどうあったかわからないが、見下されるようなセリフだった。
彼は大江に対して怒りを向けるかと思いきや、逆に辞を低くして大江に弟子入りを志願した。
戸惑った大江だったが、その誠実な物言いに弟子入りを受け入れることにした。
それからというもの、八幡太郎は熱心に学習に励み、みるみる兵法に関する能力を高めていった。
後三年の役 雁の群れ
その結果は「後三年の役」で発揮された。
後三年の役は前九年の役に続き始まった。
八幡太郎率いる源氏軍が草木が生い茂る道を進軍中、八幡太郎は馬をを止め、上空にキレイに列をなして飛んでいた雁の群れが突然乱れるのを見た。
大江匡房に教わった言葉を思い出した。
「兵、野に伏すとき、雁、列を破る」
周辺の草むらを調べさせ敵軍の伏兵が潜んでいるのを発見し、ただちに敵軍を殲滅し、窮地を逃れた。
後三年の役の勝利は、後の鎌倉幕府創建の礎となった。
もし、八幡太郎に無駄なプライドがあり、大江匡房の発言に対し突っかかったり、その場だけの感情に任せて怒りをぶつけていたらこの勝利もなかったのかもしれない。
ちなみに大江の曾孫大江広元は源頼朝の側近になり、鎌倉幕府創建に功をなした。