歴史ファイル

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【水戸黄門と朱舜水】 日本に亡命した明王朝の遺臣

かつて『辻斬り』『風俗狂い』だった少年・青年時代の水戸黄門様こと『徳川光圀』だが、中国の歴史書・司馬遷の史記に出てくる『伯夷・叔斉伝』を読み、自らの行いを悔い改めた。

***徳川光圀の若かりし真・黒歴史は以下

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光圀の善政

寛永元年(1661年)7月、父・徳川頼房が他界すると、世継ぎだった光圀は父を瑞竜山に葬った。 当時は当然のように『殉死』という風習があったため、頼房の後を追おうとする家臣があらわれる可能性があった。 光圀は殉死の噂のある家臣の家を訪問し「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠義ではないか」と家臣たちの殉死をやめさせた。 翌月の8月19日、『水戸藩・第二代藩主』になった。 f:id:Katemato:20190814121722j:plain

寛文2年(1662年)、藩主になった光圀は、まず水戸の治水事業を行った。 水戸は湿地帯が多く、井戸水が濁ってしまい飲料水が手に入りずらかった。町奉行・望月恒隆に命じ水道設備を行わせた。その後一年半かけて作られ『笠原水道』と呼ばれ、明治時代が始まるまで利用された。 他に光圀は勧農政策、藩政安定政策などを行い、さらに領内の寺社改革で寺社の不行跡(品行の悪い)の寺社の破却・移転を断行し、713寺の破却を命じた。 神仏分離を徹底させ、由緒正しい寺社については支援と保護を行った。

明王朝 VS (日本軍・順王朝・清王朝・その他の乱)

話は変わって海の向こう側の中国大陸。 光圀が藩主になり善政を行い始めたころから少しさかのぼる。

話は大陸の王朝、『明』。 滅亡の危機が迫っていた。

あまり知られていないが、明の滅亡の原因の始まりの一端は豊臣秀吉による『文禄・慶長の役』だった。 日本軍に攻められた李氏朝鮮は明に救援を要請し、『明の皇帝・万歴帝』は朝鮮半島に派遣軍を送った。 戦争は、小西行長が朝鮮半島に上陸を開始した1592年から、秀吉の死をもって撤退を開始した1958年までの長期間に渡り激しいものとなった。 明は同時期に『回族のボハイの乱』、『四川省の楊応龍の乱』の2つの反乱にも出兵していて、秀吉の朝鮮出兵を含めて『万暦の三大征」と呼んでいる。明史によると「ボハイの乱、出費80万、楊応龍の乱、出費200万、朝鮮之役、出費780万、」とあり、対日本軍の戦費は他の二つの戦いとは比較にならないほど膨大であり、明の財政破綻の要因となってしまった。

以後、明は反政府政党ができるなど政情は混乱した。 それを狙った北方民族の『後金(のちの清)』が侵攻を開始し、明国内は内乱などが相次いだ。中でも李自成率いる農民の反乱、『李自成の乱』が特に激しく、ついには首都・北京を落とし明を滅亡させた。そして李自成は新たな『王朝・順』を建国した。 f:id:Katemato:20190815120421g:plain

生き延びた明の皇族は残党勢力をまとめ江南へ退避し、南京で亡命政権を打ち建てた。 勢力図は北から「満州族の後金」、中央に李自成の「順王朝」、華南に明の亡命政権「南明」があった。 この三勢力で均衡するかと思われたが、後金が李自成の順王朝を攻撃、あっさり北京を陥落させ李自成は一時逃げ延びたが、農民の自警団に殺された。李自成が北京に入場してわずか40日のことであった。 あまりに短い政権のため、通常中国史の年表に「順王朝」の文字は入っていない。

中国大陸の北半分を満州族に占領されてしまった漢民族の南明は、貿易商で海賊でもあった『鄭芝龍』や能書家の『黄道周』、そして後に台湾の英雄と称えられる『鄭成功』らに支えられて抵抗を続け、明の復活の為に奔走した。李自成の順王朝が短期間で滅ぼされたあと、満州族は『清王朝』を建てていた。

朱舜水 日本乞師

戦乱の中に朱舜水という儒学者がいた。 朱舜水は中国の浙江省余姚県の士大夫の家に生まれた。 名は之瑜(しゆ)、魯與(ろよ)といった。舜水というのは号で、郷里の川の名からとった。

儒学者だった朱舜水は、明朝の遺臣たちが再興のために運動を始めるとこの運動に参加した。 軍資金を得るために日本やベトナムに渡り貿易を行い、台湾島を拠点とした鄭成功を支援した。 日本へは計4回、物資援助、援軍派遣を求めるために日本請援使として派遣された。御三家や薩摩藩などは出兵する気があったが、日本は鎖国政策を始めていたため、また清との交流にも気を使っていたため公式に救援を送ることはなかった。 代わりに鄭氏政権に対し長崎貿易を黙認することで間接的に援助していた。 (日本に渡った年は以下の通り――正保4年(1647年)、慶安4年(1651年)、承応3年(1653年)、万治元年(1658年)) f:id:Katemato:20190815120336j:plain

朱舜水は沈み行く明王朝の衰亡とともに生きたような人生だった。 満州族のヌルハチが明と戦い始めたとき朱舜水は19歳。李自成の乱が起きたころは29歳。 後金が国号を清と改めた際は37歳。江戸幕府が鎖国令を出したのときは40歳。

永暦13年(1659年)7月の南京攻略戦に参加したが敗退してしまったため、朱舜水は明復興運動を諦め日本の長崎への亡命を希望する。 長崎奉行の許可を得て長崎に落ち着いたのは万治3年(1660年)から寛文元年(1661年)の間。朱舜水は60歳を超えていた。

その後、南明は徐々に追いやられていき、鄭成功は台湾へ反攻拠点を移し、寛文2年1662年に鄭氏政権を樹立。同年鄭成功が病死してしまったため、抵抗は続けられたが天和3年(1683年)、鄭氏政権は清へ降伏。復興の道は絶たれ明王朝は完全に消滅した。

出会い

明が李自成に滅ぼされると中国から日本へ多くの遺臣が渡来し、大名家は彼らを招聘していた。 寛文5年(1665年)、徳川光圀は明の遺臣である朱舜水が長崎で亡命生活を送っているというの聞きつけ、小宅処斎を派遣し、同年7月に朱舜水は江戸に移住した。 光圀は最上の敬礼をもって朱舜水を迎え、寛文12年には彰考館を創建した。

ここに初めて日本に本場の朱子学と陽明学が入った。 彼の思想学問に、神道やなど既存の哲学が混ざり水戸学が形成され、今後の武士道に大きく影響していくことになる。