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【水野忠恒と毛利師就】忠臣蔵から24年後、同じ松の廊下で起きた刃傷事件、廊下は呪われてます

【水野忠恒と毛利師就】忠臣蔵から24年後、同じ松の廊下で起きた刃傷事件、廊下は呪われてます

忠臣蔵で有名な事件、いわゆる「江戸城松の大廊下刃傷事件」というのがある。

江戸城中で、高家旗本・吉良上野介が赤穂藩主・浅野内匠頭に切りつけられ、浅野が責任を取り切腹をした。その後、家臣の大石内蔵助は赤穂藩47人を率いて吉良邸に討ち入り、かたき討ちを果たした事件だ。

一昔前は、年末には必ずTVで放送されていましたね。

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赤穂事件の詳細はこちらのWikipediaで。 赤穂事件 - Wikipedia

実は、この赤穂事件から約24年後、同じ松の廊下で刃傷事件があった。

この廊下は呪われいるに違いない。もしくは風水的に人を乱心させる何かがあるのだろうか。

短気な男 水野忠恒

水野忠恒という人物がいた。 信州松本城主(7万石)で22歳という血気盛んな若者だ。

水野家はそもそも徳川家康の母、於大の方の家系で、江戸時代には外戚家として権勢を誇っていた。

忠恒は、日ごろから酒に溺れていて、みだりに弓矢を射たり、鉄砲を撃つ等など奇行が目立ち、短気で怒りやすい性格だった。 f:id:Katemato:20210315150427j:plain

ただ親切だった男 毛利師就

毛利師就という人物がいた。 長門長府藩主(5万石)毛利匡広の5男で、こちらも19歳という若い青年だった。

毛利家は、江戸幕府内では外様だった。 師就は後に長府藩を引き継ぎ清末藩復興や、防災強化、災害による財政危機などの危機を救うことになる。

詳しい内容はWikipediaで。 毛利師就 - Wikipedia

松の大廊下 刃傷事件 第二章

1725年(享保10年)7月28日 水野忠恒は江戸城殿中・松の間から出て松の廊下を歩いていた。 続いて毛利師就も退出しようとする。 ふと忠恒は扇子を忘れたことに気付き、あわてて取りに戻ろうとした。 たまたま忠恒の扇子の忘れ物に気付いていた師就は

「ここもとに、そこもとの扇子がござる」

と言った。

その瞬間、忠恒は脇差を素早く抜くと師就に突然切りかかった。 驚いた師就は瞬時に自分の鞘で受け止めたが、耳脇から襟へとかけて6寸(18㎝)ほど切られ、左指先も割られた。 すかさず、師就は忠恒の剣を叩き落したところで周囲にいた者たちに二人とも押さえつけられ大事に至らなかった。

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忠恒は乱心により改易、師就は正当防衛によりお咎めナシとなった。

乱心の原因になったのはもともと、「水野家が改易され、その所領が師就に与えられるのでは」という噂があり、それに焦っての行動といわれている。

また、忠恒は水野家であることに格上意識があり、師就の「そこもと」という呼び方が気に入らなかったというのもある。

とはいえ、どちらも身勝手な思い込みで、たった一つの言葉が気に入らないということで切り付けるのだから相当サイコパスですね。

日本では、敬語の文化が根強く、世界三大語圏(英語圏やスペイン語圏、中国語圏)の人々に比べかなり繊細なところがある。個人的にはかなり窮屈だなあと感じているので、いずれゆとり教育の若者や外国人たちがこの過剰敬語文化を壊してくれることを期待しています