歴史ファイル

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【服部武雄】 新選組最強剣士 仲間のための壮絶な戦い

幕末屈指の剣豪集団である新選組は『壬生の狼』と呼ばれ勤皇派に恐れられていた。激動の時代を最後まで幕府に忠誠を誓い、刀一本で戦い抜き、その散っていく様は幕末を語る上ではかかせない。

中二心が沸き立つ『幕末の剣士の中で誰が最強か』を決める議論はあらゆるところで行われていて、必ず新選組からは多くの人物が名を挙げられる。

池田屋で2時間の激闘の中無傷だった『局長・近藤勇』

実戦最強とうたわれた『副長・土方歳三』

誰もが認める最強剣士『一番隊組長・沖田総司』      

るろうに剣心で知名度が上がった牙突『三番隊組長・斎藤一』                          

壬生義士伝の『剣撃師範・吉村寛一郎』          

最近ゴールデンカムイで人気の『二番隊組長・永倉新八』

これら幕末屈指の剣士たちに勝るとも劣らない『新選組最強剣士』がいた。

服部武雄

新選組入隊

1832年、播磨赤穂藩の服部覚平として生まれた。『殉難録稿』に奸臣を切って脱藩した。

江戸で生活を送っていた服部武雄は、懇意にしていた『伊東甲子太郎』が新選組の藤堂平助と同門だったことから新選組に入隊したのをきっかけに、元治元年(1864年)10月、伊東とともに新選組に入隊した。

伊東派と呼ばれる隊士たち、鈴木三樹三郎や篠原泰之進、加納鷲雄、内海二郎、中西昇らもこの時期に新選組に入隊。尾形俊太郎の5番隊に属した。

慶応元年11月、近藤勇の長州出張に随行する。慶応2年9月、三条制札事件では、目付役として同行するなど活躍した。

二刀流の達人

服部武雄は当時でも珍しい二刀流の使い手で、慶応元年の春、諸士調役兼監察・撃剣師範頭に任ぜられた。

後の油小路事件では、行動を起こす近藤に対し、土方は「伊東側には服部武雄がいるから、下手に手を付けないほうがいい」と警告を受けていて、服部武雄の強さは新選組すら警戒するほどなのがうかがえる。

御陵衛士に参加

新選組の参謀であった伊東甲子太郎は水戸に遊学している際に、水戸学に影響を受け勤皇思想を持っていた。佐幕思想の新選組とは基本的に思想が相反するものがあった。

慶応3年3月10日(1867年)、伊東は同士らとともに『御陵衛士』を結成。服部武雄も当然ながら御陵衛士に参加した。

新選組から御陵衛士に参加した新選組のメンバーは以下の通り (鈴木三樹三郎、篠原泰之進、藤堂平助、毛内有之介、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄)

油小路事件

御陵衛士が発足した際に、三番隊組長の斎藤一は間者(スパイ)として伊東らと行動を共にした。御陵衛士が近藤勇の暗殺を計画をしている情報を入手した斎藤は新選組にそれを報告。

1867年11月18日、近藤の妾宅での酒宴に誘われた。 服部ら御陵衛士のメンバーは「理由なく招かれたのは不審で危険だ」と反対したが、伊東はそれを聞かずに出て行ってしまう。

帰宅途中、油小路で新選組の大石鍬次郎ら数名に襲撃を受け、伊東甲子太郎は暗殺された。「奸賊ばら」と叫び、石柱にもたれそれを抱くように絶命した。

伊東を酒に酔わせてからの襲撃にしたのは、伊東が北辰一刀流の道場主(深川伊東道場)だったため警戒してのことだった。

新選組 VS 御陵衛士

新選組は伊東甲子太郎の遺体をその場に放置し、他の御陵衛士をおびき出す作戦を取った。

事件の知らせを受けた御陵衛士は至急遺体の回収に出るべく準備を始めた。                服部武雄は敵は新選組で、これは罠であると見破っていて、新選組との決戦に対し、完全武装で挑むべきと主張した。 しかし、『元九番隊組長・鈴木三樹三郎』ら他のメンバーはそれを恥とし、「防具を付けた上で討死したのでは後世の笑いものになる」と主張は受け入れられなかったため、服部武雄以外は平時のかっこうで現場へ向かった。

慶応3年(1867年)11月18日 深夜、 罠であると知りながら服部武雄ら八人は伊東が殺害された現場である油小路へ向かった。 伊東の遺体を駕籠に乗せ、縄で固定したとき、待ち伏せしていた新選組40人が姿を現し、激戦が始まった。

服部ら八人はそれぞれ激闘を繰り広げるが多勢に無勢。 元八番隊組長の藤堂平助が討ち取られ、次いで毛内有之介が討死。

孤軍奮闘

服部武雄は得意の二刀を両手に大暴れ。服部武雄は大柄なうえに剣術、槍術、柔術達人であることに加え、鎖帷子を着ていたため新選組は苦戦し、多くの負傷者を出した。

同士の鈴木、加納、富山、篠原を逃すことに成功した服部武雄は、民家の壁を背に新選組相手に孤軍奮闘。ついに服部は30人の隊士に囲まれる。

20ヶ所以上の傷を負い満身創痍の服部の大刀が折れた。スキを狙った原田左之助の槍に刺されると、それを逃すまいと囲んでいた新選組の隊士は一斉に切りかかり、ついに服部武雄は絶命。両手に刀を握りしめたまま大の字に倒れた。

事件後

たまたま事件当日、油小路を歩いていた『桑名藩士の小山正武』というものが事件を目撃していた。 

「就中服部氏の死状は最ももののみごとである。手に両刀を握ったままで敵に向かって大の字なりになって斃れて居られた。其頭額前後左右より肩並びに左右腕腹共に満身二十余創流血淋漓死して後の顔色尚お活けるが如し」

服部が逃すことに成功した同士の一人『加納鷲雄』は、新政府軍に参加し、慶応4年(明治元年/1868年)、下総流山で正体を偽って投降してきた者を近藤勇であると看破し、近藤は捕縛され、4月25日処刑。 伊東や服部の仇をうったことになる。