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【天平のパンデミック】 奈良の大仏建立のきっかけになった未曽有の疫病大流行

日本は災害が多い。 地震、台風、津波、噴火、大雪、また日本は木造建築が中心なので人為的な火事も壊滅級の被害を及ぼしてきた。

はたしてウイルスによる疫病はどうだろうか。

ヨーロッパのペストや、幕末に流行った結核などは有名だが、大災害としての認識はなかった。コロナウイルスのような疫病の流行が災害を起こすというのは考えたこともなかった。現代においては、医学の進歩もあるから大事に至るはずもない、風邪に毛が生えたようなものだとタカをくくっていた。

しかし、そうではなかった。疫病は大災害になりうる。

医学の進んでいない昔、人類の歴史上で突然このようなパンデミックが起きたことがあった。

【天平のパンデミック】 奈良の大仏建立のきっかけになった未曽有の疫病大流行

1300年前―――

『続日本紀』

天平9年(737年)春、疫瘡大いに起こる。初め筑紫より来たれり。夏を経て秋にい渉り、公卿以下、天下の百姓、あい継ぎて疫死するものあげて計(かぞ)うべからず。近代よりこの方、未だこれ有らざるなり。

発生源・遣新羅使

天平7年(735年) 九州北部に着いた外国船から一人の漁師が『天然痘ウイルス』に感染した。

天然痘は紀元前から被害が記録されており、日本への感染源はインド、中国、朝鮮半島を経由して日本に及んだと言われている。『遣新羅使』『遣唐使』が感染源とする説もある。

天平8年(736年) 4月 『阿倍継麻呂』は遣新羅使の大使に任命された。副使として『大伴三中』、大判官として『壬生宇太麻呂』、少判官として『大蔵麻呂』らを率いて新羅に向かった。船は佐婆の海(現:山口県周防灘)で嵐に遭遇し、数日間漂流した。その後、豊前国(現:大分県)に漂着した。船は新羅に向けて再出発した。壱岐島に着くと、随行員の一人『雪連宅満』が天然痘にかかってそこで亡くなった。

阿倍継麻呂らは新羅に到着した。阿倍ら遣新羅使は従来通り新羅を従属国として接し、対して新羅は日本使に対し対等な関係として接してきた。また、新羅は日本に無断で国号を『王城国』と変えたため遣新羅使はそれを非難した。そのため正式な外交使節としての待遇を受けなかった。

阿倍継麻呂らは帰路に就いた。 f:id:Katemato:20200322192017j:plain

天平9年(737) 1月27日  帰途に着いた遣新羅使は対馬に到着。大使・阿倍継麻呂は天然痘に感染してしまい、帰郷叶わず対馬で病死した。一行は京にたどり着いたが、副使・大伴三中も感染していたため入京ができなかった。大判官・壬生宇太麻呂、少判官・大蔵麻呂が入京、帰朝報告を行った。新羅がこれまでの礼儀を無視し、使節の使命を受け入れなかったことを奏上した。新羅との関係は以前に増して悪化し、使節としての使命は果たせなかった。(***新羅との関係は話がそれるのでここまでにしておく)

遣新羅使が帰国したことにより、天然痘ウイルスが本州に持ち込まれ、全国的に流行することになる。

天然痘

天然痘は、紀元前から存在する『天然痘ウイルス』を病原体とする『感染症』である。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)とも呼ばれる。(***ここでは主に天然痘と呼ぶことにする) f:id:Katemato:20200322192038j:plain

天然痘は非常に感染力が強く、空気感染、飛沫感染、接触により感染する。7日-17日間程度潜伏期間があり、急激な発熱や頭痛、悪寒などの発症が始まる。発熱後3-4日目に一旦解熱する。その後は口腔や咽頭粘膜に発疹が出現し、顔面や四肢、そして全身に発疹が広がる。再度40度を超える高熱になり、発疹が化膿する。発疹は身体の表面だけではなく、内臓にも同じように現れ、消化器官、呼吸器官も傷付け呼吸不全なども併発し死に至る。致死率は20-50%と非常に高く、完治した後もあばたが残る。

天然痘は文明を滅ぼすほどの力を持っている。アメリカ大陸にヨーロッパ人が侵略すると、同時に天然痘を持ち込んだ。免疫が全くない地域では容易に蔓延してしまい大惨事を招く。アステカ帝国やインカ帝国の人々は天然痘に次々と感染し(チフスやインフルエンザも持ち込まれた)、人口の60-90%が大量死した。

政務停止

天然痘が流行する数年前、日本は『長屋王』が政権を握っていたが、藤原氏の陰謀で『長屋王の変』がおきると、追い詰められ自害した。それ以来、藤原鎌足の孫たち『藤原四兄弟』が政権を持ち、彼らを中心に日本が動き始めていた。天然痘の流行がなければ、この四兄弟の天下がもっと長く続いていたに違いない。

天平9年(737) 4月17日  四兄弟の一人、『藤原房前(北家の祖)』が天然痘の感染により死去してしまう。

4月19日 太宰府管内、及び諸国にさらに天然痘が大流行し、百姓、農民が多く亡くなった。聖武天皇は諸社に幣を奉り祈祷を行った。さらに疫病の被害をうけた家をまわり、金品や湯薬を施した。

5月1日 宮中にて、僧6000人に大般若教を読誦させる。 

6月1日 平城京で官人の多くが罹患し、朝廷の政務が停止になる。これ以降、宮中の中で政治の中心になっていた人物が天然痘の被害を受け始める。

6月10日  従四位下だった『大宅大国』が死去。

6月11日 同じく従四位下だった『小野老』が死去。

6月23日 中納言『多治比眞人懸守』が死去。

太政官符

天平9年(737) 6月26日  司法・行政・立法を司る国家最高機関である『太政官』は『太政官符』を発行した。太政官符は禁止事項七か条や食事に関すること、罹患した際の行動などを記した防疫対策だった。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ 太政官が東海・東山・北陸・山陰・南海の諸道の諸国司に、疫病の治療法と禁ずべき食物について七か条を命令する。

一、この疫病は赤斑瘡という。発病時の症状は熱病に似ている。発熱してから発疹が出るまで三~六日かかる。出来物の出る期間は三~四日続く。全身は焼けるように熱く、冷水をのみたがるが、決して飲ませてはならない。出来物と熱気も治まるころに、下痢がまたおこり、血便になる。併発する症状は四種類あり、咳、嘔吐、吐血、鼻血である。下痢の治療に最も急がねばならない。この意を周知し、治療に努めよ。 一、広い布と綿で腹・腰によく巻いて、暖かくして冷やしてはいけない。 一、地面に寝かせてはいけない。床に敷物を強いて寝かせよ。 一、粥、おもゆ、煎り飯、粟汁などは、温冷にかかわらず食べさせなさい。但し、鮮魚や肉や生野菜は食べないように。また水や氷を採らないように慎みなさい。下痢をしたらニンニクやネギを煮て、大量に食べさせなさい。もし下痢、血便になれば、もち米の粉を米粉に混ぜて煮て、二度・三度、飲ませなさい。もし症状がともらなければ五・六度食べさせなさい。気を暖めないように。 一、この病気は飲食をしたがらないが、無理にでも食べさせなさい。 一、回復後も二十日間は、鮮魚、肉、生野菜を取ることや、生水、水浴、風雨の中を無理に歩いたりすることは慎みなさい。もしこの注意を守らないと、下痢が再発する。 一、疫病を治そうと思ったら、丸薬・散薬などを服用してはならない。もし熱が引かなければ、人参湯を服用させるのはよい。

四月以来、京・畿内では疫病により死亡者が続出している。 諸国の人々の病気の大きいことを知る。そこで、注意を箇条書きにして諸国に伝達する。官符本文は到着次第、国府で写し取り、郡司主帳一人を使者として、隣国に送付して滞留させてはならない。また国司は部内を巡行して、百姓に内容を告示しなさい。 粥や重湯にする米がないものがあれば、国司は正税の倉を開いて官物を給付しなさい。その使用量を具に記録して印をこれに捺しておく。官符が到着したらすぐに実行するように。 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

止まらない被害

天平9年(737) 7月 大和、伊豆、若狭、伊賀、駿河、長門など諸国が天然痘の流行を報告。

7月5日  天武天皇の孫で皇族『大野王』が死去。

7月13日  藤原四兄弟の末弟『藤原麻呂(京家の祖)』が死去。藤原四兄弟は、疫病が流行ると、互いに見舞いのため訪問しあった際に感染したと思われる。

7月17日  百済最後の王『義慈王』の子孫の『百済王郎虞』が死去。

7月23日  病苦を救うため大赦を行う。

7月25日  藤原四兄弟の長男、左大臣『藤原武智麻呂』が感染症により死去。 f:id:Katemato:20200322192108j:plain

737年 8月 流行の拡大を受けて税免除の対象が九州だけではなく日本全国の地域に広げられた。

8月1日 正四位下『橘佐為』が感染症により死去。

8月5日  藤原四兄弟の最後の一人、藤原宇合(式家の祖)が死去。国政を担っていたも藤原四兄弟全員が感染によって病死した。

8月13日  聖武天皇は国民を思い、国を憂いた。

「朕、宇内に君として向かい合い、多くの年を重ねた。しかし、とどまることなく、民は安んじることがない。一晩中寝ることを忘れ憂慮している。また、春から疫病が突然発生し、天下の百姓が多く死んでいる。百官人も例外ではない。これは朕の不徳によって、災厄に至った。天を仰いで恥じ入り、落ち着くことができない。百姓を救済すること考え、今年の租賦、租税を免除する。」

8月20日  天智天皇皇女・三品水主内親王が死去。

12月27日    国名を『大倭国』を改めて、『大養徳国(やまとのくに)』とした。

終息後

738年(天平10年)、天然痘が終息した。

天平のパンデミックは、日本全国で100-150万人の死者を出した大災害となった。これは当時の日本総人口の25-35%にあたる。

天然痘の疫病に対し政府のとった対策は『賑恤』で、天平7年、9年に8回にも及んだ。 (***賑恤とは、高齢者や病人、困窮者に対し、米や塩などの食料品、衣料品などを支給すること) 山川や神仏への祈祷、国分寺の創建、太政官符の発令等を行った。

天平の疫病大流行の責任を感じた聖武天皇は、仏教への帰依を深め、『東大寺大仏殿』『盧舎那仏像』(いわゆる奈良の大仏)を建立した。また、日本各地に『国分寺』を建てた。 (***しかし、この建設費用が財政を破綻させかねないほど巨額であったとされる。)

藤原四兄弟が疫病により亡くなった後、藤原氏の勢力は著しく衰退してしまい、彼らの政敵だった『橘諸兄』が取って代わり国政を仕切るようになった。 f:id:Katemato:20200322191816j:plain

天然痘の根絶

時がったって、現代。

1955年、日本国内で発生した患者を最後に天然痘は確認されていない。

1958年、世界保健機関(WHO)が『世界天然痘根絶決議』を可決した。 それでも世界中で天然痘患者が多く存在していた。1967年、WHOは懸賞金を掛けるなどして天然痘患者の発見に力を入れ、その患者の接触者すべてに対し予防接種を行い、感染拡大を防いだ。

推定1000-1500万人いた感染者は10年かけて減少し、1977年、ソマリアでの感染が報告されたが、これが世界での感染が最後となった。 WHOは地球上からの天然痘根絶されたと宣言し、自然界での天然痘ウイルスは今は存在していない。