歴史ファイル

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【お菓子の神さま田道間守】 不老不死の秘薬・みかんを求めて大海を越える

田道間守

田道間守(たじまもり)は新羅王子・朝鮮系渡来人『天日槍(アメノヒボコ)』の後裔の清彦の子。 日本書紀では「田道間守」、古事記では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。

不老不死の秘薬を求めて大海を渡る

11代垂仁天皇90年の春2月1日、天皇の勅命により常世国(中国雲南省?インド方面?)に不老長寿の秘薬である『非時香果』(トキジクノカグノコノミ。今の橘)を探しに出た。 田道間守が秘薬を探し求め、10年(14年とも)の月日が経った。 『中外経緯伝』によると、常世国で入手した橘の実を直接日本に持ち帰ることは不可能だったので、種を新羅国に持ち込み、植生して育て、改めて手に入れた後、帰国した。

垂仁天皇崩御

田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意)を天皇に献上しようとしたものの、その時には既に153歳(140歳とも)で垂仁天皇99年秋7月1日、纏向宮で崩御していた。垂仁天皇は同年、冬12月10日に菅原伏見陵に祭られた。

田道間守の殉死

縵4縵・矛4矛を分けて大后に献上し、もう縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫び、その場を去ることはせず、絶食数日の後に殉死した。 景行天皇が田道間守の忠を哀しんで垂仁天皇陵近くに葬った。 垂仁天皇陵の宝来山古墳(奈良市)の周濠内に小島があるが、これが田道間守の墓とされている。

菓子の神

「たじまもり」の名称について、「但馬国の国守」の意味とする説がある。 「タチバナ」という名前自体を「タヂマバナ(田道間花)」の転訛とする説もある。 後に聖武天皇が「橘は菓子の長上、人の好むところ」と言い、古代の菓子が「果物」の意味もあるところから、田道間守はを菓祖神として各地の菓祖神社に奉られている。 また彼は黒砂糖も持ち帰り、橘とともに薬として用いていたので、後に密柑、薬、菓子の祖神として祭られるようになた。

橘はミカンの原種

非時香果(橘)の実は現在の橘寺(奈良県明日香村)の寺域に蒔かれことから、地名および寺名が「橘」となったとされている。 橘とは、日本に古くから野生していた日本固有の柑橘類(ミカンなど)の一種であり、本州の和歌山県三重県山口県、四国、九州の海岸に近い山地に稀に自生している。

三宅連(三宅氏)祖

この三宅連について『新撰姓氏録』右京諸蕃 三宅連条・摂津国諸蕃 三宅連条では、いずれも天日槍後裔と記されている。

秦の時代に始皇帝が徐福に不老不死の秘薬を取ってくるように蓬莱に向かわせているが、逆に日本から大陸に不老不死の秘薬を求めに出るというのはなんとも皮肉な話だと思う。