歴史ファイル

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【妖刀村正と徳川家康】 狙った獲物は逃さない! 300年経っても徳川家を呪います

刀匠【村正】

村正とは刀匠の名前で、3代にわたって村正を名乗り室町時代から江戸時代にかけて刀を作製した。 出身地は岐阜県南部の関市。関市は刀祖『元重』がこの地で刀鍛冶を始め、室町時代には300人を超える刀匠がいた。良質な松炭、良質な水を備えた風土をもっていたこの地で作製された刀は、戦国時代になると武士の間で愛用された。やがて日本一の名刀の産地として繁栄し、それは現代まで続き、世界に誇る刃物の都となっている。 村正は関市で刀鍛冶を習得し、その後、現在の三重県北東部の桑名市へ移住し、『村正』を名乗り刀を作り始めた。 f:id:Katemato:20200222001803j:plain

大量生産品

村正の特徴は、『数打ち』。数打ちとは大量生産された粗悪な刀という意味で、仕事に誇りを持つ職人なら一刀入魂するものだが村正は違った。村正の方針はこの数打ちで、どれだけ早く安く大量に作るかに比重を置いていた。 しかし、名高い刀匠を輩出した関の刀鍛冶の出身の村正。実力は本物で、早く安く量産しても、その刀の切れ味は鋭いものだった。 戦国時代の需要にまさにぴったり合ってたのが村正だった。兵に持たせる武器は実践的で、消耗品扱いの刀は大量生産しなければならなかった。価格の割にはよく切れる村正は評判が上がり、大名をはじめ多くの武士に支持され所有された。 そして、さすがの『大量生産品の村正』。別の歴史的名刀と違って国宝や重要文化財などにはひとつも指定されていない。

そんな量産型・村正がどのように『徳川へ仇なす妖刀』へ変わっていったのか。 そしてどのように『改革の愛刀』へ変わっていったのか。

徳川家康の祖父・松平清康【守山崩れ】

妖刀村正の伝説はここから始まる。 『徳川家康の祖父、松平清康』は13歳で家督を継ぐと、積極的に拡大政策を取り、周りの勢力を次々と制圧し領土を拡大していった。1529年、わずか18歳で三河を統一、一国の大名となった。(家康のおじいちゃんすごい) 三河統一後、清康はさらなる領土拡大のために『美濃の蝮・斎藤道三』と組み、織田信秀(信長の父)の治める尾張に侵攻した。 織田信光が守る守山城に攻めた際、なぜか妙な噂が松平陣営に流れた。 「家臣・阿部定吉が織田方に内通している」 「清康は処刑するつもりだ」 清康は気にしていなかったが、家臣の間で話が大きくなってきて多くの者が定吉を疑うようになってきた。定吉は息子の阿部正豊に「事実無根だ、ウワサは嘘である。しかし、濡れ衣で私の身に何かあればこれを見せ潔白を証明してほしい」と誓書を渡した。 尾張国・守山に布陣したの翌日、清康の本陣で馬が逃げ出す騒ぎが起きた。阿部正豊は父が清康に処刑されたのだと勘違いし、本陣に駆け入ると、阿部正豊は戦闘準備をしていた清康を背後から惨殺した。享年25歳だった。 生きていれば英雄になったかもしれない三河の小覇王の死は早すぎた。 f:id:Katemato:20200222001823j:plain

この時に使用された刀が村正だった!

徳川家康の父・松平広忠

『松平広忠』は『守山崩れ』で殺された松平清康の子で、家康の父。 父の清康が予期せず突然早くに亡くなってしまったため、広忠は10歳で家督を継ぐ。広忠が幼いことをいいことに『叔父の松平信定』は広忠の命を狙うようになった。 ここで再登場するのが守山崩れで清康の命を奪った『阿部正豊の父、阿部定吉』。定吉は事件の後、清康の死の責任をとって自害しようとしたが、広忠に許されそのまま家臣でいた。 定吉は、命を狙われていた広忠を連れ岡崎城から逃げ出した。そこで頼ったのが『駿河の今川義元』だった。今川義元の強力な庇護のもと1540年、広忠は岡崎城を奪還した。その後は今川方の部将の扱いになり、尾張の織田信秀と戦うことになった。その頃、『水野忠政の娘・於大』と結婚し、『竹千代(後の家康)』が生まれた。 広忠は引き続き織田と交戦し、息子の竹千代を今川に人質として預け、その引き換えに今川軍が小豆沢の戦いで織田軍を破ると情勢は好転した。 しかし、『側近の岩松弥八』が突如として広忠を刺殺した。享年24歳。 三河を平定し、これからというところで父と同じように若くしてこの世を去った。

この時に使用された刀が村正だった!!

徳川家康の妻・築山御前と息子・信康

『築山御前』は家康の正室で、今川家と何かしらの親戚関係があるとされる。 家康がまだ人質として今川家にいた際に家康と築山御前は結婚した。1559年に『長男・信康』を生んだ。 そして、その信康は9歳の時に『織田信長の娘・徳姫』と結婚した。信康は12歳というかなり早い段階で元服した。信の文字は信長からもらったもの。 信康は戦のセンスがあったようで、初陣で勝利を飾ると、長篠の戦いにも参加し活躍した。このまま家康の長男として次代を担う人物になるのかと思いきや、雲行きが怪しくなる。 信康と徳姫の間には娘が2人生まれたが、男子が生まれなかった。築山御前はこれを心配し、信康に元武田家の家臣の娘を新たに側室に迎えるなどしていた。徳姫にとっては面白い話ではない。また、さらに悪いことに、信康は性格が粗暴だった。 そのため徳姫は姑・築山御前と仲が悪くなっていき、信康とも次第に心が離れ始めていた。 そしてついに、徳姫は信康の不行状や不仲、甲斐の武田勝頼との内通など『12の項目にわたる内容の手紙』を父・信長に送った。信長は烈火のごとく怒り、すぐに事実関係を調べる使者を送り、すべて事実であるとし、信康と築山御前の切腹を命じた。家康は苦しい選択を迫られたが、信長の関係を重視し、受け入れた。 1579年、8月29日、築山御前は小藪村で野中重政に自害を迫られたが、拒んだためその場で殺害された。

この時に使用された刀が村正だった!!!

1579年、9月15日、信康は二俣城で幽閉された後、切腹した。享年21歳。 生きていれば、将来、徳川幕府2代将軍となっていたかもしれない逸材だった。

この時に解釈に使われた刀が村正だった!!!!

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関ヶ原の戦い 戸田重政と織田長孝

時がすすんで徳川家康は天下統一の一歩手前まで来ていた。 1600年、徳川家康は、以前より対立していた『五奉行筆頭・石田三成』と関ヶ原での決戦に至った。 西軍・石田三成方に『戸田重政』という武将がいた。山崎の戦いや賤ケ岳の戦い、越前侵攻などで手柄を立てると越前国吉田郡松岡城2万5千石に封じられるまで出世した。その後も九州の役、小田原の役、慶長の役などに参加するなど歴戦の猛者だった。 戸田重政は関ヶ原の戦いでは石田三成率いる西軍に属した。 戦いが始まると戸田重政は『大谷吉継』に属していたが、『小早川秀秋』が寝返り松尾山から大谷軍に攻撃を仕掛けてきた。重政の属する大谷軍は奮戦するが、さらに『脇坂安治』らが寝返り、側面から攻撃を受けることになり、ついに壊滅状態となった。 退却を始める大谷軍。同じように戸田重政の部隊も撤退を始め、石田本陣に向かおうとしたところ、『織田有楽斎の長男・織田長孝隊』に遭遇してしまい戦闘が始まった。 戸田重政は織田長孝と直接槍を交えた。織田長孝の家臣が参加すると次第に戸田重政は不利になり、ついに槍で突かれ討ち取られてしまった。 戸田重政の首は戦後、家康のもとで首実検となった。この論功行賞の際、『戸田重政を討ち取った槍』を披露したが、それを扱っていた家臣が誤って落としてしまい家康の指を切ってしまった。

この時に使用された槍が村正だった!!!!!

大阪夏の陣 真田幸村

関ヶ原の戦いから14年。すでに征夷大将軍となっていた徳川家康は、いよいよ戦国の最終戦へと向かっていた。

豊臣家との戦い『大阪冬の陣』が終わると家康と豊臣方の間で和議が結ばれた。 和議の条件が『大阪城の堀の埋め立て』だったため、大阪城の三の丸二の丸と消えていった。

この戦いに豊臣方として参加していた真田幸村は、『真田丸』を築き、徳川軍を大いに苦しめた。 戦後に、和議の条件として真田丸も打ち壊されてしまった。

幸村の強さを望んだ家康は『幸村の叔父・信尹』を使者として派遣し、徳川に寝返るように説得したが、幸村は一向に良い返事はしない。 家康は最終的に『信濃一国を与える』とまで言ったが、幸村は秀吉に恩があると、「信濃一国どころか、日本国中の半分をいただけるとしても、私の気持ちは変わりません」断った。 (後世、ハンサムに描かれるわけだわ)

1615年、『戦国時代最後の戦い、大阪夏の陣』が始まった。 徳川軍15万5千人。それに対し豊臣軍は5万5千人。多勢に無勢、戦況は思わしくない。 じりじりと追い詰められる豊臣軍。幸村は奇襲を提案するが軍議で揉めて実現しなかった。 幸村は『毛利勝永』と『後藤又兵衛』と家康を迎え撃つ計画を立てたが、当日、幸村と毛利が濃霧のため目的地にうまくたどり着くことができず、単独で戦うことになった後藤は討死。

徳川軍は全軍で大阪城を囲み、豊臣方はいよいよ絶体絶命の状況に追い詰められた。 幸村は茶臼山に3500人の兵を率いて布陣した。死を決意した幸村の狙うは家康の首ただ一つ。 茶臼山を駆け降りると、幸村軍は10部隊以上もある徳川軍の各部隊を打ち破っていく。怒涛の勢いで家康本陣にせまった。家康は死を覚悟するほど追い詰められたが、家康を守る兵が幸村軍を押し返した。幸村はさらに押し返す。三度に渡る突撃を行った。三方ヶ原の戦い以来倒れたことのなかった『家康の旗印』がついに倒れ、家康の首が目前に迫った。 幸村は腰に装備していた短刀を家康に向けて投げつけた。しかし、家康には命中せず、ついに幸村軍の疲労も限界となり撤退を開始した。

幸村は、四天王寺近くの『安居神社』の境内で木にもたれ休んでいたところを発見され、「この首を手柄にされよ」と言葉を残し豊臣家再興の夢かなわず討取られた。

この時に投げられた短刀が村正だった!!!!!!

徳川家康とその家臣たちは、これだけ徳川家を傷つける村正に嫌悪した。 家康は村正すべて廃棄し、公に忌避されるようになった。 f:id:Katemato:20200222002125j:plain

しかし、それでも終わらない。徳川家を呪った妖刀はまだ徳川家に害をなすことになる。

由井正雪の乱・慶安の変

大阪夏の陣を最後に日本から戦争が消えた。

『由井正雪』は大阪夏の陣から遡ること9年前、駿河国由井で『紺屋(染物屋)・吉岡治右衛門』の子として生まれた。治右右衛門の妻が、『武田信玄の転生した子』を産むと予言された夢を見て、その後生まれたのが由井正雪だった。 由井は小さいころから熱心に学びとても優秀で、徳川家からも士官の誘いがあったぐらいだった。それを断り由井は、『軍学塾・張孔堂』を開いた。塾はとても人気になり、3000人近い塾生がいた。

『3代将軍・徳川家光』の時代、浪人の数が急増していて、百姓や町人に転じるものが多かった。盗賊に身を落とす者もいた。そういった浪人は幕府の政治に対して恨みを持つものが多く、社会問題化していた。 由井正雪の軍学塾・張孔堂にはそういった浪人が多く集まるようになり、彼らは徳川家による政治を批判するようになった。

1651年、徳川家光が没すると、その息子『徳川家綱』がわずか11歳で継ぐことになった。由井はこれを契機に幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始する。

転覆計画は、まず幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放つ、これに慌てた幕府の重臣や旗本などを討ち取り、家綱を誘拐する。という過激なものだった。

しかし、同志の『奥村八左衛門』が突然裏切り、幕府に計画を密告してしまった。 悲運なことに、計画が露見していることを知らないまま由井は駿府に帰ると、宿泊場所を奉行所の捕り方に囲まれると覚悟を決め、自害した。

後に幕府は、この乱の原因となった浪人増加を問題視し、改易を減らすために『末期養子の禁』の緩和、各藩に『浪人採用を奨励』した。戦国時代から続く武断政治から、法や学問によって治める文治政治へと移行していった。

そして、由井正雪が所有していた刀が村正だった!!!!!!!

幕末【250年後の復讐戦】

『黒船来航』以来、日本列島は動乱の渦にあった。 250年続いた『徳川幕府』を終わらせようと多くの『維新志士』が活躍した。 その中心にいたのが『薩長土肥』。 つまり、薩摩藩、長州藩、土佐藩、そして肥後藩だった。この四藩は互いに連携関係にあり、より最先端の技術を輸入し改革の活動を行った。

この4藩は、250年前、徳川に因縁を持っていた藩だった。

薩摩藩は『島津家』。島津家は関ヶ原の戦いで西軍に属し、『島津義弘』が『島津の退き口』を発動し善戦したが敗戦した。 長州藩は『毛利家』。『毛利輝元』は西陣の総大将を務めたが敗戦。戦後、減俸処分を受けた。 肥前藩は『鍋島家』。『鍋島勝茂』は西軍に属したが、『父・鍋島直茂』の働きによって安堵された。 そして、土佐藩は『長宗我部家』だったが、西軍に属し敗北したため改易となった。かわりに徳川家の武将『山内一豊』が藩主になった。土佐藩はそれ以降、山内系武士は『上士』、長宗我部系武士は『郷士』とされた。 維新で活躍した坂本龍馬や中岡慎太郎などの土佐藩士は郷士出身が多い。

つまり、明治維新は関ヶ原の戦いの250年越しの『復讐戦』だったのだ。

『徳川に仇なす刀』、維新志士たちにとっては倒幕を叶える『改革の愛刀』となった。 多くの維新志士たちはこぞって村正を使った。

後に維新三傑と呼ばれる『西郷隆盛』の愛用していた刀も伊勢千子村正だった!!!!!!!

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有栖川宮 熾仁

幕末・明治の倒幕派の皇族。親長州藩として『会津藩主・松平容保』を洛外追放を画策したり、長州藩のクーデターを援助したりと『バリバリの尊王攘夷倒幕派』だった。王政復古が起こると総裁職に就任し、鳥羽伏見の戦いでは征東大総督、西南戦争では陸軍大将として活躍した。 熾仁親王が身に付けていた刀が村正だった。 そして大量生産品の村正をわざわざ選んだのは、もちろん徳川に仇をなす刀という縁起を担いでのこと。 f:id:Katemato:20200222002223j:plain

------ここに、徳川幕府は終焉した。