前回の近江屋事件の時系列をまとめた記事で、犯人探しや怪しい人物などを特定せずに、単純に一般的に言われている見廻組が真犯人であるとの観点でまとめを書いてみたが、どうしても気になる人物がいたので今回はその人物【菊屋峰吉】について書いてみた。
菊屋峰吉とは近江屋事件で坂本龍馬に軍鶏を買ってくるように頼まれ、刺客が襲撃したときに外出いていたため難を逃れた17歳(当時)の少年である。
【菊屋峰吉】 本屋の少年
嘉永4年、京都にある土佐御用達の書店「菊屋」主人・山口多右衛門の長男として生まれた。
後、「鹿野安兵衛」と名を変えている。
土佐の維新志士、陸援隊の中岡慎太郎がたびたび菊屋に下宿していたことから峰吉と中岡は交流を持つことになった。
中岡慎太郎や坂本龍馬からは大変気に入られていて「峰や」と呼ばれていた。
龍馬の依頼で団子売りに変装して新選組の屯所に偵察に行ったこともあった。
【近江屋事件】 龍馬暗殺
慶応3年、11月15日、午後5時
中岡慎太郎は菊屋を訪れ、峰吉に手紙を渡し薩摩屋に持っていき、返事を持ってくるように頼んだ。
午後7時、峰吉は近江屋に戻り中岡に返書を渡した。返書を渡したころ岡本健三郎も近江屋へ来た。
その後、龍馬は腹が減ったと峰吉に軍鶏を買ってくるように言われ近江屋をでた。同席していた岡本健三郎も近江屋を離れた。
午後8時ごろ、龍馬と中岡は刺客に襲われた。
午後9時ごろ、峰吉が軍鶏を購入し近江屋に帰ってくると既に事件の後だった。
近江屋の入口で抜刀している土佐藩士・島田庄作と会った。
島田は事件のことを聞きつけちょうど駆け付けたところで、抜刀し刺客が出てくるのを待っていたところだった。
峰吉はまず1階に入り、台所を通り裏口を出た。そこの物置を開けると近江屋の主人と妻がおびえて隠れていた。2階へ上がると刺客はすでに去った後で龍馬はすでに絶命、中岡は重傷を負っていた。
峰吉は急いで馬に乗り陸援隊の屯所に急を知らせに走った。
【峰吉急を告げる】 なぜ陸援隊屯所なのか
近江屋の路を挟んで向かいにあるのが土佐藩邸。わずか数メートルのところにある。
龍馬と中岡は脱藩の罪を許され、土佐藩主・山内容堂の右腕、後藤象二郎などとも頻繁にこのころ合うようになっていて確執はないように見える。(土佐藩黒幕説もあるが、、、)
緊急であれば、まず土佐藩邸に駆け込むのが自然ではないだろうか。
陸援隊の屯所は近江屋から4kmも離れたところにあり、助けを呼ぶ優先順位としては不自然さが残る。
***峰吉が近江屋主人と嶋田と一緒に中岡を室内へ移し、土佐藩邸に急を知らせ、その後陸援隊に駆け付けたという説もある。
【詳細すぎる暗殺のシーン】 誰がその場を証言したのか
この近江屋事件は多くの謎が残されているが、まず疑問なのが刺客がどのように龍馬・中岡を切りつけたが詳細に残っていることである。
刺客の一つ目の太刀は龍馬の額を切り、その時の血痕が掛け軸に残る。次に刀を取ろうと背中を向けるとそこをもう一太刀。振り返り鞘を使い降り下げられた刀を受け止めたが、鞘が割れ、その勢いで頭を切られた。
中岡は事件後2日生き延び、当時の状況を証言しているのでおおまかな内容は間違ってはいないと思うが、刺客は複数いて自分も襲撃を受けいる最中にこのように一の太刀二の太刀を覚えていられるものだろうか。
【見廻組今井信郎と渡辺篤の証言】 そこにいた書生3人
近江屋事件の実行犯として見廻組は通説としてほぼ確定されている。
しかし、その証言で気になるのが以下の通りだ。
今井信郎「2階に上がると六畳間に3人の書生が、八畳間に坂本と中岡がいた。渡辺と桂は書生と斬りあい、書生は屋根伝いに逃げた」
渡辺篤
「13、4歳くらいの給仕が居たが、机の下に首を突っ込んで怯えていて、まだ年少のだったので見逃した」
屋根伝いに逃げた書生は岡本健三郎で、斬られたのは元相撲取りの藤吉。
机の下に隠れていたのが菊屋峰吉だったのではないだろうか。
峰吉は軍鶏を買いに行ってなかった、もしくは買いに行った後で襲撃時に近江屋にいて事件の一部始終を目撃していたのではないだろうか。
上記した克明な暗殺の状況を説明したのは峰吉だったのではないだろうか。
日本史上最も大きな暗殺事件。そこに偶然居合わせた少年の峰吉が見た者はいったい何だったんだろうか。
【その後】
明治10年(1877年)
西南戦争で熊本鎮台司令長官・谷干城のはからいで「会計軍夫」として従軍した。
大正7年(1918年)
死去 享年68歳