新元号が『令和』に変わったことで1300年の時を越えて一躍時の人となった。
『令和』の由来は730年に開かれた万葉集の「梅花の宴」。
大宰府にある自宅に高官を招いて梅の花を見、酒を飲み、詩を詠みあった。
そんな大伴旅人ととはどういう人物だったのだろうか。
663年に日本は『白村江の戦い』で唐・新羅軍に敗れ、大陸からの侵略を恐れていた。
九州に大宰府を置き、防人を配備して唐の襲来に備えた。
国家体制のの強化は急務となり、律令を軸にした体制作り、長安をモデルにした都作りが始まっていく。
それから2年後の665年に大伴安麻呂の長子として生まれた。
安麻呂は大納言という政府の重役に付きながら、歌人としても名声があった。
(大納言=役職として大臣より下、参議より上、といった感じと思ってください)
そんな父の後押しもあってか旅人は順調に出世を重ねる。
672年、壬申の乱勃発。父・安麻呂は勲功を挙げる。
701年、旅人は第七次遣唐使に任命される。
710年、元旦朝賀にて左将軍として隼人・蝦夷を率い参列。
隼人の反乱
九州南部はヤマト政権の勢力が薄く、律令制を導入しようとしたことに対し隼人(熊襲)は大きく反発した。数年間大和朝廷と隼人の間で緊張が続き、720年2月、大隅守・陽候史麻呂(やこのまろ)が殺害されたのをきっかけに戦闘が勃発。
大伴旅人は征隼人持節大将軍に任ぜられ1年半に及ぶ戦いに勝利した。
細かく述べると8月に旅人は右大臣・藤原不比等がなくなった為、京へ戻るように勅を受けていたため副将軍・巨勢真人に後を任せ、九州の地をたっている。
大宰帥に任命
724年、大宰府に帥として赴任する。
赴任された理由は諸説あるが、長屋王排除を目論む藤原四兄弟による左遷人事や、国際情勢に強く軍事も信頼があったための人事だとされる。
梅花の宴
730年、ヤマト政権による一連の国家事業が形作られ、東アジア情勢も安定してきた。
平和で安定した時代「天平」が到来し、文化や風流を楽しむ余裕が生まれてきた。
「万葉集」第五、「梅花の歌三十二首 序文」
旅人はその宴に参加した人々の心情を以下のように詩っている。
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天平二年正月十三日に、帥(そち)の老(おきな)の宅(いえ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)らく。
『天平二年正月十三日に、大宰府帥の大伴旅人宅に集まって宴会を催した』
時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(かう)を薫す。
『時、新春の好(よ)き月、空気はきれいで風は穏やかに、梅は鏡の前に装う美女の白粉(おしろい)のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香のような薫りを漂わせている』
加之(しかのみならず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は縠(うすもの)に封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。
『のみならず、明け方の嶺には雲が動き、松は雲の薄絹を掛けくぬがさを傾け、夕方の山には霧がたちこめて、鳥は薄霧に閉じ込められて林の中で迷っている』
庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こかん)帰る。ここに天を蓋(きぬがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)へ觴(さかづき)を飛ばす。
『庭には生まれたばかりの蝶が舞い、空には年を越した雁が帰ってゆく。ここに天屋根とし、地を座敷とし、
膝を近づけて盃を交わしてる』
言を一室の裏に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡然と自ら放(ほしきまま)にし、快然と自ら足る。
『言葉を一室の裏に忘れ、胸衿を大気の外に開いている。淡々と心のままにふるまい、快く満ち足りている』
若し翰苑(かんえん)にあらずは、何を以ちてか情(こころ)を攄(の)べむ。詩に落梅の編を紀(しる)す。古(いにしへ)と今とそれ何そ異ならむ。
『これを文筆にしないのならば、どうやって心中を表せばよいのだろうか。漢詩(中国)にも落梅の詩がある。いにしえと今に何の違いがあるだろう』
宜しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。
『この園の梅を題に、詩を詠もうではないか』
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翌年の713年、旅人は従二位、臣下最高位に昇進後、病に侵されこの世を去る。
享年67歳
年少の頃にバブルが崩壊し「氷河期時代」といわれた不景気平成で青春時代を生きてきた私としては、ぜひ「令和」は素晴らしい「初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ 」のような時代であることを祈るばかりである。