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【上杉鷹山ー後編】大飢饉から国民を救った奇跡

katemato.hatenablog.com

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目次

学校設立

米沢の藩士や領民の多くは少しずつ上杉鷹山の改革に賛同し、今ではその努力が少しずつ実を結んできた。

しかし、治憲は考えた。まだ駄目だ。まだ足りない。米沢藩の民が富むには未来に渡っていなければならない。今この時期だけ良いのではダメだ。藩が苦難に陥った時は、それを乗り越える改革者が必要で、 良政が行われているときは、それを継続できる藩士や領民の意識が重要だ。 そのために必要なもの、それは学校だ。

人材を育てるには学校以外は考えられない。それも藩士だけ通う学校ではなく、農民や町民が通える学校を作るべきだ。いい先生を招き、米沢藩の将来を担う人物を育てたい。 治憲が思いついた良い先生とは、

『細井平洲』

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細井平洲【興譲館】

治憲は幼少の頃、平洲を師とし、多くの者を学んだ。一汁一菜や普段着を木綿で過ごすことなどは平洲が教育したものだ。

米沢藩主になる前の治憲に、平洲が送った言葉がある。

「勇なるかな 勇なるかな 勇にあらずんば 何をもって行なわんや」 (何か大きなことを為すには勇気が必要だ。勇気がなければ、何によって行えばよいだろう」

平洲は1728年、尾張の農家として生まれた。幼少の頃から勤勉で、京都や長崎に遊学もしていた。しかし、生活は極度に貧困で親から送られる仕送りはほとんど本に使った。食べ物は一汁一菜、服はぼろぼろ、体からは垢が浮いているような状態だった。

24歳の頃に江戸へ出て塾を開くと、門人はすぐに増えた。朱子学を中心にしたが、「学問と今日とは二途(にと)にならざるように」(学問と現実が別の道になってはならない)と現実的で実践的な教育にこだわった。実生活に役立たないものは教えない。「学、思、行、相須(あいま)つ」(学び、考え、実行することが三つ揃って、初めて学んだことになる)、知識は得るだけではなく、生活に活かしてこそだと説いた。

人に、善いことと悪いことを見分けることを先に教えるべきだ。善いことをしなさい、悪いことをしてはいけないとただ言うだけでは伝わらない。人に善を説くならばまずは自分が行うべきだ。大切なことは譲ること。相手を思いやること。自分中心の考えや、思い上がりは道を外れた行為である。自分の知識を勝ち誇り、人を見下すなどやってはいけないことである。そうすることによって人と人が互いを知り、物事がうまく回るのである。

平洲は学校の名前を『興譲館』と名付けた。 興譲とは「譲を興す」と読み、人を人として敬い、譲り合う生き方が徹底すれば仲のよい地域社会となる。それによって国も栄えるという理念を示した。

天明の大飢饉

米沢を含む東北地方は、1770年代から悪天候や冷害によって農作物の収穫が激減してきて農村は疲弊した状態だった。 1783年、3月には陸奥・弘前の岩木山が、7月には上野国の浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせ、日射量の低下による冷害が農作物に壊滅的な被害をもたらした。人は餓死し、道に死体の山ができた。死んだ人の肉を喰らい、人肉と草木を混ぜて犬の肉だとだまして売るものも出てきた。飢饉が発生すると疫病も流行り始め、農民が農村から都市部に流入し治安が悪化した。 1786年には異常乾燥と、洪水も起こっていたこともあり、1787年には江戸や大阪では、打ちこわし騒動が起こり、江戸では1万軒を超える米屋と商屋が襲われ、無法状態が続いた。

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東北の主な藩の惨状は酷かった。

弘前藩 ずさんな新産業政策が失敗し藩財政が困窮していた。そのため年貢増徴による米の供出、貯蔵していた米も強制買上が行われたりしたため、餓死者が続出していた。

盛岡藩

幾度の飢饉を経験していたにも関わらず、その対策がされていなかったため、大飢饉をまともに受けてしまい、7万5千人という総人口の4分の1の人々が餓死した。

八戸藩

収穫高が95%も減少し、さらに伝染病が蔓延したこともあり、総人口6万5千人のうち3万人が餓死した。

仙台藩

この大飢饉の前、1754年に起きた宝暦の飢饉の被害が残っていて、財政困窮のままだった。役人の汚職や密輸などが横行しており、米の価格が高騰していて大飢饉の被害が拡大した。

津軽軽藩

老若男女問わず餓死者10万2千人、人が死に絶え空き家になった家は3万5千軒、3万人が伝染病で死んだ。8万人が藩から逃亡した。

南部藩

餓死者4万8千人、疫死者2万4千人、他領への流亡者を加えると、人口の2割を失った。 f:id:Katemato:20200225203850j:plain

かてもの

1767年から始められた治憲による藩政改革。 上記したように、1783年は天候不順と二つの山の噴火により、飢饉の度合いが増してきた。治憲は執政・莅戸善政らに対応策を命じた。 莅戸はまず、藩士と領民に対し白米を食べることを禁止した。米を原料とする酒や菓子などの製造も中止した。そのかわりに『糅物(かてもの)』とよばれる、飢饉の際に主食を節約するための代用食を食することを奨励した。領民は普段からいざとなったら食べれる植物を敷地内に植えていたので、さらに山や野に自生している植物や果実などを食した。

米沢藩は、宝暦の飢饉などの経験から、不作や飢饉に備え、米穀や金銭を貯蔵しておく『備荒貯蓄制度』をすすめ、事前、当事、事後の対応策が執られていた。 また、米の貯蔵に余裕のあった越後国や庄内地方などから大量の米を買い入れ、縁戚だった尾張藩などからも米を借り入れた。

米の収穫量は例年の4分の1になり、藩内のすべての蔵を開放し、米・穀物を合計4万8千俵を放出した。これらを藩士や領民に供給した。 結果、米沢藩は、全国で総人口の4.6%、140万人を超える被害を出した天明の大飢饉に於いて、一人の餓死者も出すことなく乗り切った。

上杉鷹山 伝国の辞

1802年、剃髪し、『鷹山』と号した。 米沢北部にある『白鷹山』からとったといわれる。

治憲は次期藩主として、先代上杉重定の次男、治広を指名した。 治憲には『顕孝』という側室の子がいたが、藩権を上杉直系へ差し戻した。治憲は天から米沢藩に遣わされた救世主のような人物だったと思わざるを得ない。

治憲は、治広に家督を譲る際、三か条からなる『伝国の辞』というもの渡した。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候 (国家は先祖より子孫へ受け継ぐもので、私物するべきものではない)

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候 (国民は国家に属するのであって、私物するべきものではない)

一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候 (国家と国民のために立てられた君主であって、君主のために国家、国民があるのではない)

右三条御遺念有間敷候事 (この三カ条を心に留め、忘れることなきように)

天明五巳年二月七日  治憲 花押 治広殿  机前

1822年、上杉鷹山、逝去

翌、1823年、米沢藩の借財11万両はすべて完済。藩の蔵には5000両の蓄えができていた。 11代藩主・斉定は藩士一同と共に謙信公御堂に報告した。

「為せば成る、為さぬば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」